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東京高等裁判所 平成元年(お)3号 決定 1990年9月03日

主文

本件各再審請求をいずれも棄却する。

理由

本件各再審請求の趣旨及び理由は、請求人B子及びC共同作成名義の再審請求書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

第一本件各再審請求の手続き法令、管轄、再審請求権等について

一  手続き法令、管轄について

本件各再審請求は、A'(本件判決当時の姓は「A」)(以下「A」という。)に対する強盗殺人被告事件について昭和一二年一二月一三日に大審院が言い渡した有罪の確定判決に対しその再審を求めるというものであるところ、Aに対する強盗殺人被告事件の手続きないし審理の経過については、検察官作成の「刑事確定訴訟記録等の保管の有無について」と題する書面によって認められるように同事件の確定訴訟記録、証拠品及び判決書が、宮城控訴院判決及び大審院判決(以下「本件各判決」という。)の各判決書を除き、戦災によって全て焼失して現存しないため、そのほとんどが不明であるが、右各判決書及び請求人の提出資料によれば、昭和一一年七月二一日に本件事件が発生し、同事件についてAが強盗殺人罪により起訴され、昭和一一年一二月二二日に青森地方裁判所において同人を有罪と認めて無期懲役に処する旨の判決言渡があり、これに対し同人が控訴し、昭和一二年五月三一日に宮城控訴院において同じく有罪と認定の上、同人を懲役一三年に処する旨の判決を言い渡し、この判決に対し、検察官及びA双方が上告し、大審院においては事実審理を行う旨決定して事実審理を行った上、昭和一二年一二月一三日、原判決を破毀自判したが、犯罪事実としては控訴審判決と全く同一の事実を認定して、同人を無期懲役に処する旨の判決(以下「大審院判決」という。)を言い渡し、同判決が確定するに至ったことが認められる。

そうすると、本件各再審請求は、刑事訴訟法(昭和二三年法律第一三一号)施行前に公訴の提起のあった事件にかかるものであるから、本件については、刑事訴訟法施行法二条により、刑事訴訟法(昭和二三年法律第一三一号)による改正前の刑事訴訟法(大正一一年法律第七五号)(以下「旧刑訴法」という。)及び日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律(昭和二二年法律第七六号、以下「応急措置法」という。)を適用すべきものと解される。そして、本件については、前記のとおり大審院が自判して有罪の言渡しをしたのであるから、旧刑訴法四八五条、四九〇条により大審院が原判決をした裁判所としてこれを管轄するところ、同院廃止後の現在においては、裁判所法施行法二条、裁判所法施行令一条により、東京高等裁判所にその管轄権が属する。すなわち、本件各再審請求事件については、当裁判所が審理すべきものと解される。

二  請求人らの再審請求権について

本件各再審請求は、前記のとおり請求人B子及び同C共同作成名義の再審請求書を当裁判所に提出してなされたものである。

ところで、本件各判決書、請求人提出の各資料及び当裁判所の事実の取調べの結果によると、A(明治四四年六月二一日生。大審院判決当時の本籍並びに住居は青森県西津軽郡《番地省略》)は、判決確定後服役したものの、仮釈放となった後、昭和三四年ころからB子と内縁の夫婦となって同棲生活を送るようになり、昭和四六年五月七日にB子との婚姻の届出をして同女の戸籍(当時の本籍は青森県北津軽郡《番地省略》、その後青森市《番地省略》)に入籍し、姓を「A'」に改めたが、昭和五八年二月二七日に死亡したことが認められる。これに対し、Cは、DとB子との間に生まれた長男で、Dが昭和三三年四月ころ死亡し、B子が右のようにAと結婚したことから、その後は同人らと一緒に暮らしていたが、Aとの間に血族関係、養親子関係のあった者ではなく、同人とは民法上いわゆる姻族一親等の間柄にあるにすぎないことが認められる。そして、右のような身分関係に照らすと、B子が、旧刑訴法四九二条一項四号により、有罪の言渡しを受けた者の配偶者として、Aの死亡後同人の利益のために再審請求権を有することはいうまでもなく、一方、Cは、同号に定めるその余の請求権者すなわち直系の親族その他に当たらず、旧刑訴法のいずれの規定によってもAのために再審を請求できる権利を有するとは認められない。

したがって、B子のなした本件再審請求は、同女がAの配偶者として同人の利益のためにしたものとして、適法な申立てである。ただ、本件請求書には作成者であるB子の表示は記名であって、その記名の下に押印が欠けている。しかし、当裁判所から意見を求められた際に、同女が自ら書いて提出した平成二年五月二三日付けの意見書(「さいばんかんにおねがいします」という書き出しで始まるもの)においても、本件請求が同女の意思に基づくものであることを明確に示しており、また、事実の取調べに際しても、受命判事に対し、B子は本件再審請求が自分の意思に基づくものであること、自分が字を十分に知らないため請求書を息子であるCに書いて貰ったが、内容については同人と十分に相談し自分としても書かれている内容を納得していることなどを述べており、これらB子の陳述を合わせ考えると、本件請求書は同女がその意思に基づき作成したものであることが明白である。そして、このように本件請求書がB子の作成したものとして実質的要件を備えていることに照らし、作成者の表示方法につき署名押印と定める旧刑訴法七三条の要件を充たしていないという形式上の不備があるとはいえ、同法五〇四条にいう法律上の方式に違反した場合に該当するものではないと認めることができる。

一方、本件再審請求については、Cが再審請求権を有しないことは前記のとおりであり、同人の請求は、B子の請求と併せて行われたものであっても、不適法であって棄却を免れない。

第二本件再審請求(B子の請求に係るものをいう。以下同じ。)の理由の要旨

所論は、概ね、次のようなものである。

本件犯罪事実について、Aは犯行に関与しておらず、無罪である。

E子を殺害した犯人は、F'ことFである(現在の住所=北海道室蘭市《番地省略》)。すなわち、Fは、昭和一一年七月二一日当時、E子方の近くのH方の一室を借り受けて住んでいたが、同日午前三時ころ、男女関係や金銭貸借のトラブルからE子方地下に忍び込み、客が帰り皆が寝静まるのを待ったのち、E子の寝ていた部屋に至った上、同女を刃物で二回突き刺して殺害したものである。なお、Fは、E子を突き刺した際に返り血を胸に受け、また、地下で「モミガラ」が身に付いたことからE子の枕元にモミガラを残したり、階段には地下足袋の足跡を残したりしており、更に、地下の裏木戸から当時Fの借りていた部屋に立ち帰った後、本件犯行に使用した刃物をその部屋の押入れの床下の土中に埋めて隠したのである。

そして、Fが刃物を土の中に埋めて隠した状況は、同人の妻G子が目撃しており、G子がその旨新聞記者に話していたところ、右床下に埋めた刃物が、事件発生から四七年を経過した後、錆びた状態ではあるが、当該場所から発見されて掘り出されるに至っている。また、当時一六歳であったHは、昭和一一年七月二一日午前三時ころ、胸にどっぷり返り血を付け地下足袋を履いたFの姿を目撃したが、Hの親から他言しないようにと口止めされていたことから、五〇年にわたって他の誰にも話さないでいたものの、現在では、右事実を供述するに至っている。これらはいずれも、Fが犯人であることを立証する証拠である。

Aは、I子に淋病を感染させたこともなく、同女から金員の請求を受けたこともないし、JやKからも何事も言われておらず、E子の許から金を盗む必要もないし、E子を殺害する動機も全くない。この点、I子は、昭和四五年のNET奈良和モーニングショウ「俺は犯人でない」に出た際、同女がAに治療代を請求したことは絶対にないと述べている。また、E子は、刃物で刺されたのち、A、L子及びM子の三人が寝ていた八畳間に入ってきて、ワアーと大きな声を出して、助けを求めたものであり、三人は、その大声に何秒の差もなく起きたという状況にあり、Aは、E子が刃物で刺されたことも知らず、「カアチャンどうした、カアチャンどうした」と言いながら介抱したのであって、Aの当時着ていた襯衣と猿又に付着していた血痕は、そのとき傷口から血が空中に飛散し、霧状となって付いたものと窺われる。もしAがE子を二度突きもしていれば、返り血の付き方として、この襯衣と猿又の場合のように肉眼ではほとんど見ることができないほど微量であるとは考えられない。それにもかかわらず、被告人が捜査段階で自白したのは、拷問されたためである。すなわち、被告人は、警察で、顔が変形するまで竹刀で叩かれ、昼夜を問わず、「お前が殺したんだろう」「刃物はどうした」などと責め立てられ、殴られたり蹴られたりし、また、柔道の形で投げられるなどして、自白を強要されたのである。

結局、FがE子を殺害した犯人であるのに、Aは、拷問による自白と証拠の誤った判断に基づきその犯人とされて有罪の判決を受け、一生を苦しんだのであるから、請求人らは、その遺族としてAのために再審を請求するものである、というのである。

第三大審院判決において認定判示する犯罪事実と挙示する証拠

一  大審院判決において認定判示する犯罪事実の要旨は、次のとおりである。

被告人(以下「A」に同じ。)は、昭和一〇年五月ころより、かねてから知り合いの青森県北津軽郡五所川原町《番地省略》において飲食店を経営していたE子方に赴いてしばしば飲食をし、同年一一月ころよりは時折宿泊して雑用の手伝い等をしていたところ、昭和一一年七月二〇日、同県中津軽郡裾野村所在の羽黒神社の祭典に際し、E子方において同神社境内に茶屋掛けをするに当たり、手伝いとして同行し、同日午後一一時ころE子及び同家女中L子等と共にE子方に立ち帰り、同家に宿泊したが、就寝後、昭和一〇年八月ころより情を通じていたI子よりかねて被告人から感染した淋疾治療に要する費用の供与方を求められつつあること及びE子が同日茶屋掛けにより得た売上金を所持していることを想起し、前記I子の要求に資するため、右金員を窃取することを企て、若しE子に発見されたときは、その罪跡を湮滅するため即時同人を殺害することも決意した上、同夜(同月二一日)午前二時過ぎころ、マキリと称する匕首様の刃物一挺を所持してE子の寝室を窺い、同人が熟睡した隙にその枕代用の二つ折りの座蒲団中にあるE子所有の財布を引き出そうとしたとき、E子が目を覚まし被告人の顔をみて誰何したことから、右所携の凶器をもって同人の左腕、左胸部等を突き刺し、よって、間もなく右傷創に基づく出血の結果、同人を死亡するに至らしめたものである。

二  大審院判決は、証拠説明において、被告人に対する第一回強制処分訊問調書、被告人に対する第二回強制処分訊問調書、証人L子に対する予審訊問調書、証人M子に対する予審訊問調書、証人N子に対する予審訊問調書、証人I子に対する予審訊問調書(記録第六九八丁以下)、証人I子に対する予審訊問調書(記録第一一七九丁以下)、原審第一回公判調書中の被告人の供述、鑑定人黒川廣重作成の鑑定書、鑑定人佐野眞一作成の昭和一一年七月二七日付け鑑定書並びに「証第十四号の猿又」及び「証第十八号の襯衣」の存在を挙示しているが、右各証拠の内容は、概略、次記第四の一に掲げるとおりである。

第四証拠の概要及び請求人提出の証拠資料

一  Aに対する強盗殺人被告事件の確定訴訟記録及び証拠品は、前記第一の一で述べたとおり、戦災によって全て焼失して現存していないため、その審理において取り調べられた証拠を、現在、直接に検討することは不可能である(なお、鑑定人黒川廣重作成の鑑定書については後記のとおり請求人提出の証拠資料中にその写しが含まれている。)。ただし、大審院判決及び控訴審判決にはいずれも、その証拠説明において挙示した証拠の概要が掲げられているので、これらに掲げられた範囲内において、取り調べられた証拠の内容を一応知ることができる。本件各判決に掲げられた各証拠の概要は、次のようなものである。

(1)  被告人に対する第一回強制処分訊問調書(本件各判決を挙示)

自分は、昭和三年ころ、本家の酒を青森県北津軽郡五所川原町の飲食店に配達するという仕事をしていたとき、同町寺町の「甲野」という飲食店に女中奉公をしていたE子と知り合ったが、昭和一〇年四月ころ、自分が東京から帰って来ると、E子が五所川原町《番地省略》で飲食店を経営しており、その当時自分が慢性の淋病のため病院に治療に通っていたので、その途中E子方に時々立ち寄るようになり、同年一一月ころからはしばしばE子方に泊まり手伝いを頼まれたりしていた。

ところで、自分は、昭和一〇年八月ころ、E子方に出入りし女中のように店の手伝いをしていたI子という二二歳の女性とE子方で情交関係を結び、それ以後深い仲となり、I子から結婚してくれと言われ、自分も同女と夫婦になる気でいたが、間もなくE子からI子には北海道に出稼ぎ中の亭主がいるから見付からないように関係せよと言われ、一時はI子との関係を断とうと思ってみたが、既に深い仲になっていたので諦められず、そのまま引き続き情婦として関係を持っていた。昭和一一年七月三、四日ころ、E子方八畳間の炉端で、E子から自分に対し、I子は子宮を悪くし医師の治療代にも困っているので、お前に幾らかでも出してくれるよう言伝てくれということなので、I子も困っているだろうから二三圓(控訴審判決の証拠説明には、「二、三圓」と記載されている。)遣ったらどうかと言われ、自分は、当時所持金もなく、遣ろうと思っても遣ることができなかったため、E子には返事をしなかったが、自分としてはI子に同情していた上、今まで情婦として可愛がっていたので、少しでも金を遣り歓ばせてやりたいと思っていたものの、自分には一定の職業もなく入金の途もなく、E子から借り入れようかと思ってみても、E子が平素口癖のように金がなくて困る困ると言っていたことから、E子に貸してくれと頼むこともできないという状況であった。

自分は、昭和一一年七月二〇日午後一一時過ぎころ、青森県中津軽郡裾野村大字十腰内羽黒神社祭礼の出張店からE子や女中らと一緒に帰り、翌二一日午前二時ころ階上六畳間で女中等と就寝したが、その前約一時間ほど仮眠していたため眠れず、床の中で色々なことを考えているうち、ふとE子の枕元には羽黒神社の出店の売上金が財布に入れてあるので、この売上金を盗んでやろう、そうすればI子に幾らかでも金を遣ればI子も歓ぶだろう、その財布を盗まずにそっと中の金だけを幾らかでも取って残しておけば自分が盗んだことは判らぬであろう、もし見付かれば大変で、五所川原には顔出しもできない、金を取ったところをE子に見付かったら殺してしまおう、E子が死ねば自分が悪い心を起こしたことを誰にも知られずに済む、幸い羽黒神社の境内で拾った「マキリ」が店の下駄箱の傍らの漬物桶の横に置いてあるから、このマキリを持って行き、見付けられたならば刺し殺そうと決心した。人を殺すことは悪いことだが、E子は妻のある色男を何人も持ち、その妻達を苦しめている悪い奴だから、そんな奴を殺しても悪くないだろう(控訴審判決の証拠説明では、「殺すのは却って良いことだ」と挙示している。)、俺もE子のためO方その他へ色々用達に使われ、その色男の妻などに色男を世話する悪い男と思われているに相違ない、自分はE子とは何の関係もないのにJは自分とE子との仲を疑っているらしい、E子を殺せば一切のごたごたしたことがなくなり、E子が死んでしまう方が良いと思った。しかし、人を殺すのは重罪なるが故、巧みに金を盗めば殺さないで済むという考えであったが、いよいよE子の枕元より財布を引き出そうとしたとき、E子が誰だと言い自分の顔を見たので、初めに考えたとおり左手に持っていた「マキリ」でE子の左胸辺を二、三回力任せに刺し殺した。自分は、元来左利きである。

(2)  被告人に対する第二回強制処分訊問調書(本件各判決が挙示)

自分達が、七月二〇日午後一一時半ころ、羽黒神社からE子の店に立ち帰ったとき、E子は自分に対して何となく不機嫌であった。それは、E子が以前にも羽黒神社に出店を出したことがあったが、余り儲からなかったので今年は止めると言っていたのを、自分が勧めて店を出させたところ、金を使う客が少なく思ったほど売上がなかったため機嫌が悪かったものと思われる。E子の店に帰ると、間もなく二人組の客が来て、階下六畳間で女中らを相手に飲酒し、一二時ころ帰ったものの、入れ替わりに二人の客が来て、女中等の寝る西の六畳間で飲み始めたことから、E子は、女中等に対し客が帰ったら早く寝ろと言い付け、子供と共に東四畳間で就寝した。自分は、八畳間の炉端に横になっているうち寝込んでいたところ、翌二一日午前二時ころと思うが、女中L'子ことL子に揺り起こされ、六畳間に行くと、二人の客は既に帰り、六畳間の南側に東西に西枕に女中の布団が取ってあり、その北側に南北に南枕に自分の寝床を敷き、室一杯に蚊帳が吊ってあったので、ズボンとワイシャツを脱ぎ、水色の海水着様の襯衣と猿又だけになって寝床に入った。女中等二人も間もなく戸締りをして寝たが、L'子は、六畳間と八畳間の境の襖をすっかり締め、浴衣を着たままM'子と向かい合って西枕に寝床に入り、自分は、L'子とは予て自分と情交関係があったため、自分の近くに寝た同女と関係したものの、疲れ過ぎていたためか或いは少しばかりうたた寝したためか寝付かれないでいるうち、ふとE子の枕元にある金を盗もうと考え、昨日申し上げたとおり、あんな奴は殺しても却って世間のためになる奴だから、もし金を盗んでいるところを見付けられたらE子を殺してしまい、誰か他の人が殺したように装い、証拠のないようにしてやろうと考え、女中等が寝込んでいるのを幸い、そっと床を脱け出し、静かに六畳間と八畳間との境の襖を開け、八畳間に出て東側四畳のE子の寝室を覗き見たところ、E子は寝床の西側の南枕で寝ており、その枕は座蒲団を二つ折りにしたもので、仰向けになり、右手をその東側に寝ている子供の頭の上の方へ差し回し、子供に手枕させていたようであったものの、子供は下方にずり下がって少し離れ、E子は丹前を敷いたような形で、右腕を袖に通し左腕が抜けて、左肩及び胸が出て、腹の辺に丹前の左下裾が掛かっているという様子であった。自分は、E子がよく眠っているようであったものの、もし目を覚ましたならば殺してやろうと考えて、店の土間と八畳間との境の障子の東側を約一尺五寸位開け、体を横にして土間に降り、階段の左手にある下駄箱の傍らの漬物桶の蔭に置いてあった「マキリ」を左手に逆手に持って、E子の寝室に行き、蚊帳の西南の外にかがみ、右手で蚊帳をまくり、体半分を乗り出すように入れて、E子の寝息を窺い、よく眠っている様子であったことから、座蒲団を二つ折りにした中に財布が入れてあり、その紐が二つ折りの口から出ていたので、その紐を右手で静かに引っ張ったところ、その途端にE子が目を覚まし、誰だと叫んで自分の顔を見上げたため、自分としては顔を見られた以上、仕方がないやって仕舞えと決心し、左手に持っていた「マキリ」で、E子の左腕の肩に近い所を力を込めて突き刺したが、E子がワアッと叫んだので、「マキリ」を抜き取り、また同じ辺を目掛けてブスリと力強く突き刺したところ、それが脇下に刺さった模様で、そのためE子が気絶したようなので、「マキリ」を抜き取り、もう死んだのかと思いながら、傍らにしゃがんで様子を見守っていた。ところが、思いがけなくE子が突然立ち上がったことから、自分は、すっかり驚き無意識に何という考えもなく、蚊帳を捲くり上げてE子が外に出られるようにしてやった。E子がふらふらと八畳の炉端の方に行き掛けたことから、「マキリ」を持っていると自分が殺したことがすぐ判ると思い、自分は、さきほど述べた一尺五寸程開いた障子の所から左手に持つ「マキリ」を血の付着したままひょいと土間に落とし置き、直ちにE子の後に随いて行った。E子が八畳間を通り流し場へ水でも飲みに行くのかと思っていたのに、わあわあ声を上げ大息を吐き苦しそうだったので可哀想になると同時に、自分がE子を殺し掛けたことが判れば困るなと思い、どうしたら良いか判らずうろうろしてE子の後に随いて行ったところ、E子は、ふらふらと六畳間に入り、女中等の寝ている足の辺りに蚊帳の外から倒れ掛かり、頭を西北に向けてどたりと倒れた。自分は、しゃがんで、E子の後より両手をその頭に掛けて髪を掴み頭を揺り動かしながら「かあちゃんどうしたんだどうしたんだ」と二、三回言ったが、女中がその前よりE子の叫び声を聞いて目を覚ましていたらしく蚊帳を出て来てE子の手を握るなどし、間もなくE子が大きな息を二回ほどして力が抜けたようになったので死んだと思った。その時E子の子供が四畳の方から泣きながら出て来たので、女中がその子供を背負い外に飛び出したことから、自分は女中等に早く「N'」の家へ知らせろと命じて、同人方に走らせた。「N'」とは近くの岩木町に住むN子(控訴審判決の証拠説明には、「N"」と記載されている。)のことである。自分も、外に出てみたが、その辺に他の人影がなかったことから、早速に店の中に入り、土間から血の付いた「マキリ」を拾い上げた。「マキリ」は、八畳の東隅の障子の一尺五寸ほど開いたところより踏段を越えて一尺位離れた土間の板敷に落ちていた。自分は、それを拾い上げると、再び外に出て、乾橋を西に走って行き、橋の中程右脇にある水量検査小屋の五、六間手前の欄干の傍らに寄り、その小屋の方に向け水面を目掛けて投げ捨てたところ、ぽちゃんと音がして「マキリ」は水の深みに入ったようであったが、真っ暗だったので、どの辺の水面に落ちたか判らなかった。自分は、すぐ引き返して店の外に立っていたが、そこに岩木川の堤防の南の方から夜廻りがやって来たため、或いはその夜廻りが自分が乾橋の方に行ったのを見たのではないかと思い、疑われてはならないと思ってごまかすために夜廻りに向かい「誰かそっちの方に行かなかったか」と尋ねた。

(3)  被告人の控訴審公判廷における供述(本件各判決が挙示)

自分は、昭和三年ころ、青森県西津軽郡《番地省略》の酒店Q方に奉公中、同県北津軽郡五所川原町の飲食店に酒の配達の途中に同町寺町の飲食店甲野方にしばしば昼食のため立ち寄っていたことから、当時同人方で女中をしていたE子と知り合いになったが、昭和一〇年五月ころ自分が東京から帰って来て、淋病治療のため五所川原町所在の病院に治療に通っているうち、E子が同町乾橋袂で飲食店を営んでいることを知り、時々同人方に立ち寄るようになり、同年一一月ころからは時折同家に宿泊して掃除、雪掻き等その他の雑用をしてやっていた。昭和一一年七月一九日夜一〇時ころE子方において、自分がE子に対し明日の羽黒神社(青森県中津軽郡裾野村所在)の祭典に商いに行かないのかと訊ねたのに、E子は儲からないから今年は止めるということであったが、自分が同人に対し他の飲食店では皆商いに行くため馬車に荷物を積んで出掛けるのを見たと申したところ、E子は、急に出掛けることにし、七月二〇日の午前三時ころ出発した。自分は、早朝魚類を購入して後から持参するため居残り、同日午前八時ころ出発し、羽黒神社に赴き、E子の茶屋掛にて一日中手伝いをし、午後七時ころ店を閉じ、同日午後一一時ころE子及び女中等と共にE子方に立ち帰り、翌二一日の午前二時ころ「証第十四号の猿又」及び「証第十八号の襯衣」を着たまま女中等と階上六畳間の同一蚊帳内で就寝した。

自分は、元来右手よりも左手利きである。

(4)  証人L子に対する予審訊問調書(本件各判決が挙示)

自分は、昭和一一年五月ころ、月五圓の給料で青森県北津軽郡《番地省略》飲食店E子方の女中に雇われた者であるが、E子方には自分の他に女中M子がおり、自分は通称L"子(控訴審判決の証拠説明では、「L'子」と挙示している。)と申し、M子は通称M'ちゃんと呼ばれていた。自分がE子方に雇われた当時から、Aは、E子の親類だと言って、時折E子方に宿泊していた。E子は、同年七月二〇日の羽黒神社の祭典には遠い所まで費用を掛けて行っても去年の例から言って余り儲からないから行かないと言っていたが、一九日の夜遅くなってE子方に来合わせていたAが、E子に対し、乙山の店でも甲野の家でも羽黒さんへ行くと言っているからこの家でも行った方が良いとしきりに勧めたことから、E子がお前も一緒に行って手伝ってくれるならば行っても良いとのことで、Aが手伝ってやるからと何度も勧めた結果、E子がその夜一二時ころ行く決心をした。翌二〇日午前三時ころまでに準備をし、E子及び他の女中と共に出掛け、午前七時ころ羽黒神社に到着し、小屋掛けをして午後五時ころまで商いをしたものの、余り商売がなく儲からなかった模様で、当日の売上高は五五圓位だろうと思うが確かな金額は判らない。午後一一時ころ、E子及びAその他女中等と共に五所川原町の店に立ち帰り、午後一一時半ころ及び一二時ころ二人ずつの来客二組があったが、E子は、一二時ころ「お客が帰ったら早く寝ろ」と注意し、四畳間で子供と共に就寝し、Aは、間もなく八畳間で仮睡していた。

二一日午前一時四〇分過ぎころ客が帰る際一圓三五錢の勘定に対し一圓五〇錢寄越したので、自分は、E子の寝ているところに行き、E子を起こして一五錢の釣りを貰い、客から渡された五〇錢銀貨三枚をE子に手渡したが、その際E子の様子を申し上げれば、E子は四畳間の蚊帳の中に南北に長く寝床を取り、南枕で東側に寝て、同人と旦那のJとの間に生まれた子供を西側に寝かせ、左乳を子供に含ませていた。E子が自分に釣り銭一五錢を寄越すとき、子供の枕としていた二つ折り座蒲団中より縞の財布を取り出して、その中から一五錢をくれた。E子は、裸で下半身に丹前を掛けていた。E子は、平素より子供を寝かせ付けている時でも、今自分が東側になり子供を西側にしているかと見れば、いつの間にかその反対になって寝ていることがあり、始終寝方を変える癖がある。

客が帰るとすぐに六畳間に私等女中二人とAの床を取り、表戸の戸締りをし、仮睡中のAを起こした。同人は、ワイシャツとズボンとを脱ぎ、青色の袖無しの運動着、猿又を着用したまま床に入り、自分は、八畳間の戸障子も襖も全部締めて横になったが、他の女中のM'ちゃんはすぐ眠り込み、自分も眠ろうとしたところ、Aが自分を引っ張ったので、同人の言うがままに情交し、二一日午前二時一〇分ころかと思うころ眠りに入った。すると、突然奥の方で「おわい、おわい」と大きな声がしたため、びっくりして目を覚まし、奥の方を見ると、自分が寝るとき確かに締めたはずの六畳間と八畳間との間の襖の南から二枚目が約二尺ほど南の方に開き、三枚目が北の方へ一尺ほど、すなわち襖が三尺ほど開いていて、四畳間からE子が右肩に丹前を引っ掛け腰巻きをしたままよろよろと出て来ており、八畳の炉の辺でまたおわいと大声を上げながら、両手を腰の辺に出し、丁度絵にある幽霊のように両手首を前の方にぶらりと下げ、ふらふらと走るように滑るように自分の寝床の方へ来た。E子の後にはAが立っていて、AがE子を追い掛けていたのか或いはE子の倒れるのを後ろから支えていたのか判らなかったものの、とにかくE子がふらふらと立っている背後におり、E子の倒れるのを左手で支えているように見えたが、自分はそれを見た瞬間未だAとは気付かず、誰か男がE子を脅迫している位に思い、Aを呼び起こすつもりでAの寝床の方を見たところ、寝ているはずのAの寝床にはその姿が見えなかったので、自分がはっと思いE子の後ろを見直したところ、間違いなくそれがAであったから、どうしてよいか判らなく腰が抜けたようになった。すると、E子は、八畳間の炉の辺から倒れるように自分の寝床の方へごとごとと入って来て、蚊帳の外から倒れ、大きな呼吸を三回ばかりしたままぐんなりし、頭を北にして仰向けになったので、蚊帳から出て八畳間よりE子の倒れているところを見ると、E子の左胸の辺が真っ赤になって大きな傷をしているのが見え、自分は、びっくりし、心の中でAがE子を殺したのだと思い、怖ろしい奴だ、自分もここに居ては殺されるという思いで、腰が抜けるような気がした。Aは、E子の後からE子の頭を膝の上に載せ、両手でE子の髪を掴み頭を揺りながら「かあさんどうしたんだどうしたんだ」と言っていた。自分が四畳の方をそっと見たところ、四畳と八畳との間の二枚の襖のうち北の方の一枚が三分の二ほど開いており、八畳間の南東隅の障子が西の方へ一尺五寸位開いていた。自分とM'ちゃんは只うろうろしていたところ、Aは、自分たちに対し怒った声で早くN"のところへ教えに行って来いと言った。N"とは岩木町のN子のことであって、E子が平素世話になっていた人である。自分は、ここに居るとAに殺されるような気がしたので、Aに命ぜられたのを幸いにすぐ外に出掛けようとしたとき、四畳から子供が泣きながら出て来たので、子供を置いても行かれぬような気がして、すぐ八畳の部屋にあった着物を着せ、M'ちゃんに背負わせ、外に出て二人でN"方に行った。自分は、その途中でも、AがE子を殺したと思った(控訴審判決の証拠説明では、「殺した者だと思った」と挙示している。)が、Aの態度が変であったことを人に話したら、自分もE子と同じように殺されるであろうと考え、誰にも喋らないことに決心した。

(5)  証人M子に対する予審訊問調書(本件各判決に挙示)

自分は、昭和一一年四月末ころより青森県北津軽郡五所川原町《番地省略》飲食店E子方に月二圓五〇錢の給料で雇われていた者であるが、Aは、時々E子方に宿泊しており、また、I子という二二歳の女の色男であって、AがE子方に来ているときは大概I子も来ていた。同年七月二一日午前二時ころ、E子方六畳間の一つ蚊帳内にA及びL子等と共に就寝したが、夜中突然にL子が自分を揺り起こして、「M'ちゃん、かあさんどうしたのか」と言ったので、びっくりして起き上がったところ、E子が自分の寝床の足元に倒れていて、左の腋下のところが真っ赤になって沢山血が出ていたので誰かに刺されて殺されたことが判った。同日午前四時ころ、自分とL子とAとN子の四人が警察に引っ張られて行く途中、小学校付近の道路で、Aが自分の後に追い付いて、自分の右腕を突き、警察へ行ったら、何を聞かれても、何も知らない判らないと言い、何も喋るなと言いながら、恐ろしい顔で睨み付けられたため、自分は、恐くて、はいと答えて承知したように少し頭を下げたが、そのとき、自分はAがおかしいなあ、Aがかあさんを殺したためかかることを言うのかなあと思った。

(6)  証人N子に対する予審訊問調書(本件各判決が挙示)

自分は、昭和九年ころよりE子とは親類同様に親しくしていた。昭和一一年七月二〇日E子方に留守居に行き、同夜帰宅後就寝していたが、当夜E子方の女中二人に起こされてE子方に到ったところ、E子が階上六畳間に倒れており、既に脈もなくもう死んでしまっていると思った。E子が誰に殺されたのかA及び女中等は知っているものと思い、女中等に聞いてみたが誰が殺したか言わなかった。その後、自分も女中達と一緒に公会堂に留められて警察の取調べを受けたが、公会堂に留められている間に、女中のL子が話すにはE子が殺されるときのことをよく考えてみると、E子がウンウンと言って六畳間に来るとき自分が目を覚ましたらAがE子の後ろより随いて来たということであり、また、Mは、公会堂での話で、警察に来る途中、Aよりこの事件については警察で何も言うなと口止めされたと言っていた。女中二人の話によれば、E子を殺したのはAのような話振りであった。

(7)  証人I子に対する予審訊問調書(本件各判決が「記録第六九八丁以下」と注記して挙示しているもの)

自分は、昭和一〇年五月ころからE子と知り合いになって、時々、E子の店に手伝いに雇われていたところ、同年夏ころE子方でAと関係を結び(控訴審判決の証拠説明では、「Aが自分を無理に姦淫し」と挙示している。)、その後何回となく関係を持ち、昭和一一年二月二五日から三月一九日まで二一日間E子とその色男Oが大鰐温泉に湯治に行くことになり、自分もAと共にE子等と一緒に行き、Aと夫婦気取りで遊んだりした。七月三、四日ころ、E子方へ行き、E子に対し、Aの病気が伝染したかどうか判らないが子宮が悪く治療をしなければならないのに金がなく困っていることを話し、被告人に伝言してくれと頼んだ。当時E子はAに話したようであったが、Aからは何とも返事がなく、七月一九日五所川原町の芝居見物かたわらAに会って幾らでもよいから金を貰おうと思って、午後四時ころE子方へ行ったところ、Aが居なかったので、居合わせたPという者に、自分はこれから芝居見物に赴くのでAに劇場に来るように伝言を依頼して置いたが、ついに劇場ではAと出会わなかった。自分は、Aに合ったならば金を幾らかでも貰う考えであった。自分が金い貰いたがっていることはE子も知っていたので、多分Aに話してくれたろうと思う。

(8)  証人I子に対する予審訊問調書(本件各判決が「記録第一一七九丁以下」と注記して挙示しているもの)

自分は、昭和一一年七月一七日にE子方へ行った際、Jも居合わせたが、自分が身体の具合が悪くて困ることを話し、E子がそれならAに話して金を何程か貰って医者にかかったら良かろうと言い、そのような話をしているところへ、K酒屋が来合わせ、妙堂崎の方へ行くとのことだったので、自分はKに対し、Aに身体が良くないので医者にかからなければならないから、錢を幾らか貸して貰いたいとの伝言をKに頼んだ。その際自分より金高については言わなかったように思うが、JやKが二〇圓又は二〇圓程と言っているならば、自分がその時そのように話したかもしれない。自分が病気療養費を自分の夫より貰わずにAから貰おうとした理由は、その病気がAから伝染したもので夫には話せないので、Aから出た金で医者に掛かり病気を治す考えであった。

(9)  証人Jに対する予審訊問調書(控訴審判決が挙示)

E子は自分が妄のようにしていた女で、時々同人方に立ち寄っていたが、E子より、Aは何の関係もない男だが時折来て店の仕事を手伝ったりするので、泊まれと言ったのでもなく泊めてくれと言われたわけでもないが夜遅くなっても帰らず結局泊まっていくようなことがあるという話を聞いていた。AがI子と情交関係にあることも、自分は知っていた。本年七月一七日の午前中、I子が自分とE子の居るところにやって来て、Aから病気が染ったため入院しなければならず、それについてK酒屋に言伝を頼み、Aから二〇圓も貰うように言ってやってくれという話をしているうち、K酒屋が来たので、I子は、直接K酒屋にAへの伝言を頼んでいた。K酒屋という者は、始終Aの村の方に酒売りに行く人である。

(10)  証人Kに対する予審訊問調書(控訴審判決が挙示)

Aは水元村妙堂崎の男で五所川原町《番地省略》飲食店E子方に来ており、自分が商売上E子方に出入りするうち知り合いになっていた。AにはI子なる情婦がいたところ、多分昭和一一年七月一七日ころと思うが、午前一〇時ころ、E子方においてJの居合わせたところでI子と会ったが、その際、I子から自分が伝言を頼まれた。その伝言とは、I子が病気で困っており医者に掛からねばならないから金を二〇圓ばかり融通してくれということであり、当日自分が妙堂崎に行ったときその伝言を伝えるべくA方に立ち寄ったが、Aが不在であったため伝言を伝えることができず、その日の夕方、帰途にE子方に立ち寄りその始末を話してある。

(11)  鑑定人小田桐清三郎に対する予審訊問調書(控訴審判決が挙示)

自分は、約二〇年間刃物鍛冶をしており、今から一〇年ほど前に樺太に二年間行っていたほかは五所川原町で営業をしている者である。

五所川原町地方にて俗に「マキリ」と言えば、本当のマキリの他に匕首やこれに類する刃物等をも併称している。本来のマキリというのは、漁夫が鱒を割くのに使用する刃物(鱒割などという。)や漁夫が鰊を割くのに使う刃物(一名鯖割という。)を指称するものである。鱒割とは、短刀のように先の尖った片刃のものであって、鍔がなく、刀身の長さは五寸から六寸程、巾は七、八分、厚さは一分位のものであり、また、鯖割は鱒割よりは幾分短く、先端を細くした、やはり片刃のものである。

(12)  強制処分における検証調書

控訴審判決が証拠説明中に「記録七一〇丁以下」と注記して挙示しているのは、次のような部分である。

「E子が経営していた飲食店の店の土間は入口から入った箇所三坪がコンクリート敷であり、その奥左手の二坪が板敷であって、その板敷の奥八畳の座敷に接し、これに上がるための踏板がある。この踏板は土間の板敷より八寸高く、幅一尺長さ二間にわたって八畳間に添い、これに接着している。右板敷の右手すなわち東側には板を立てて、更にその東側一坪が区画されている。その一坪の東半分は階下の土間に通じる階段の昇降口となっており、西側半分はあたかも物置のような外観を呈し、階段下り口際には下駄箱一個が置かれ、これと相対する側には筵、ラムネ空壜を入れた木箱その他小桶等が雑然と置いてあり、かつ、コンクリート敷に接した箇所で、下駄箱の南隅に近く漬物桶一個が置かれていた。

右物置様の箇所とその西方板敷との間の板構と八畳間への踏段と直角をなした隅付近(該箇所は被告人が本件犯行直後その所持していた凶器を八畳間から店舗板敷上に向け投げ置いたという箇所である)に血痕が存するかどうか検分したが、瞥見しただけでは果たして血痕が存するかどうか確認することができない。すなわち、八畳への踏板より南方五寸五分位、板構の西方約八寸の箇所に大豆大の汚点一個があり、これより約八寸東南方に半円を描いた範囲内に点々と暗褐色の汚点があるし、或いは大豆大又は五錢白銅貨大位であって肉眠でも子細にこれを観ればこれが血痕であろうと推測することも難しくない状況にあるが、該箇所の近くに食卓及び椅子が置かれているので、醤油又はソース等の滴痕である可能性もないではない。なお、該汚点のある箇所より八畳間の敷居までの間に血痕があるかどうか検分すると、階段の東側より西方に約八寸、敷居より南へ約二寸の箇所に小豆大と覚しきやや赤味を帯びた黒色の汚点があり、それより西方約一尺離れた踏板上に数個の同様の汚点があったが、これらの汚点はいずれも乾燥していた。右汚点のうち血痕らしく思われる程度の高いものの周囲を白墨で区画して、その状況を撮影させた上、予審判事が板敷の前記汚点のある部分を切り取り、これを証第一五号の一、二、三として押収し、更に鑑定人佐野眞一に交付して鑑定を命じている。」

(13)  鑑定人佐野眞一作成の昭和一一年八月八日付け鑑定書

控訴審判決が証拠説明中に挙示しているのは、次のような部分である。

「証第一五号の一、二、三に存在する汚点に関し、人血かどうか、人血とすれば血液型はいずれかについて鑑定した結果、E子方店板敷及び八畳間への上がり段板面上に存する汚点は血痕にして人血であり、血液型はO型である。」

(14)  鑑定人佐野眞一作成の昭和一一年七月二七日付け鑑定書

本件各判決が証拠説明中に挙示しているのは、次のような部分である。

「E子の死体を検案すると、右側下顎部より頚部に亘る表皮性の擦過切創、左側胸部に一個の刺切創、左側上膊部に一個の刺切創がある。凶器は鋭利な片刃の刃物であり、E子の血液型はO型である。E子の死は他殺であって、その死因は出血死であり、死に至る経過は、左側第三肋間腔より左側肺上葉を通り左心耳左心室に亘る貫通刺創の結果、心臓から左側胸腔内に多量の出血を生じ、左肺上葉からの出血と相まって死の転帰を取ったものである。」

(15)  鑑定人黒川廣重作成の鑑定書

本件各判決の証拠説明中に挙示しているのは、次のような部分である。

「証第一四号の猿又及び証第一八号の襯衣には多数の飛沫状痕があり、このような飛沫状痕は小動脈より迸出した血液が噴霧状となり周囲の物体に付着するときしばしば見られるものであり、また、これらの血液は人血であって、猿又に付着したものの血液型はO型である」

なお、請求人提出の証拠資料中、照会文書証明書(当庁平成元年押第二六七号の一六)に本鑑定書の写しが添付されているので、同写しをみると、本鑑定書の説明の項のうち、血痕に関する部分の記載内容は概ね次のとおりである。

「壱 血痕

一 附図第一、第二に示すように、証第一四号申又の表面右前には(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)、裏面右前上には(ル)の人血痕を付着し、証第一八号襯衣の裏面背部には(ヲ)(ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ)(ソ)(ツ)の人血痕を付着している。

二  証第二一号胴巻には血痕を証明し得ない。

三  証第一八号の血痕は微小であって、血液型の検査をしてみても正確な結果を得る見込みがないので、その検査は省略した。証第一四号申又の血痕(ル)はO型、(チ)はAB型という結果を得ている。(チ)がAB型という結果になったのは、被告人A(AB型)の分泌物付着に基づくものである。その他の血痕については、証第一八号と同様の理由で血液型検査を省略した。

四  証第一四号申又の血痕(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(リ)は飛沫状痕である。(チ)(ヌ)(ル)は擦過状痕であるところ、飛沫状痕が付着直後なお液状をなしている間に擦過されたときもまた(チ)(ヌ)(ル)のごとき外観を呈するので、始めから血液付着の物体に触れたものなのか、はたまた飛沫状痕を擦過したものなのかという区別は困難である。

証第一八号襯衣の血痕(ヲ)(ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ)(ソ)(ツ)はいずれも裏面に付着しているものであるが、透かし見ると、織り目には何物も介在せず、血液は繊維内に浸み込み、液状のまま付着したことを示しており、いわゆる「蚤の糞」とは全く外観を異にし、これは明らかに飛沫状痕と認めるべきものである。仮にこれを「蚤の糞」とすれば証第二一号胴巻には更に多数の「蚤の糞」があるべき筈なのに、事実は、胴巻の表面及び裏面を精細に検してもその各一個を発見したに過ぎないというものであった。

五  以上のように証第一四号申又、証第一八号襯衣には多数の飛沫状痕が存する。そして、これらのような飛沫状痕は、小動脈より迸出する血液が噴霧状となり周囲の物体に付着するときにしばしば見られるものであって、鑑定事項二に指示されたような状況においてかかる飛沫状の血痕が付着し得るものである。もっとも、そのためには加害者は証第一四号申又及び証第二一号胴巻は普通に着用し、証第一八号襯衣を裏返しとして、背部を前にして胴巻の上よりこれを着るのが必要条件である。本鑑定とは何ら関係ないことであるが、証第一八号襯衣と同種類のものを裏返しに着用し、或いは前後逆に着ている者があることは往々目撃されるところである。」

なお、同鑑定書の鑑定事項の項には、鑑定事項の二として「右血液はいかなる場合に(例えば人を刺した場合創口より飛んだ血が付着したというような)付着したと認められるのか。甲が臥床中、右申又及び襯衣胴巻を着ていた(その上には何ら着用せず)犯人乙が申の枕元辺に居て、甲の腕の付け根、胸、下顎等を刃物で刺したとすると、右申又及び襯衣等に現に付着している血は、右凶行の際付着したものと認められるか」という鑑定を命じられた旨記載されている。

また、証第一六号(糞を水に溶解し、その残滓を採取したもの―昭和一一年七月二二日採取)が人糞か獸糞かという鑑定事項については、「証第一六号は、洗滌残渣であることから、化学的には糞便であることを立証できないが、外観上糞便に酷似し、また、その成分から人糞と認められる」という鑑定結果が記載されている。

(16) 「証第十四号の猿又」及び「証第十八号の襯衣」の存在(本件各判決が挙示)

本件猿又及び襯衣が現存しないことは、前示のとおりである。ただ、請求人提出の証拠資料中の鑑定人黒川廣重作成の鑑定書の写しに、猿又及び襯衣の一部について図面が書かれており、その図面からおおよその形及び血痕の付着状況は窺え、また、襯衣の色が青色であったことも、前記被告人の供述やL子の供述などから窺える。

二 請求人提出の証拠資料

請求人は、本件再審請求書に添えて証拠資料(証拠書類及び証拠物)として、証拠保全請求書等綴一冊ほか二一点(当庁平成元年押第二七六号の一ないし二二)を提出しているが、本件犯罪事実の認定に関連する各証拠資料の概要は、次のようなものである。なお、議事録(第三回)等綴(前記押号の四)は、青森県弁護士会人権擁護委員会が、本件請求人らから昭和五三年二月に本件に関して人権侵犯事件として申立てがあったので、調査を行った際に収集した資料を綴ったものであり、A、L子、M子らから供述を聴取した際の聴取書等が含まれている。

1  議事録(第三回)等綴(前記押号の四)中の各聴取書(いずれも写し、以下同じ。)の記載内容の要旨

(1) Aの供述の聴取書(昭和五五年二月一六日に聴取したもの、図面一枚添付)

自分は、酒屋に勤めていたので、E子の家に酒を配達していたが、昭和一一年の事件のあったときの半年位前からE子と知り合いになったものである。E子の店の仕事を手伝うようになったのは、事件の二か月位前からのように思う。E子のところに泊まるようになったのは、男が誰もいないから泊まってくれと言われたためである。当時、自分は、E子の店から二里位離れた西津軽郡の妙堂崎に住んでいた。女の人は、E子の他に女中の「M子」と「L子」であった。賃金はE子から貰ったことはなく、酒屋から貰っていた。

E子の店に出入りしている当時、E子の店に来ていたI子から一人でいるから遊びに来てくれと言われ、同女と関係を持つようになった。I子には旦那がいたが、旦那は酒を飲んで下水に落ちて死んだということであった。しかし、I子に淋病をうつした覚えはなく、また、I子から金を無心されたことも全くないし、I子に金をやって喜ばせようとしたこともない。I子から淋病の治療代を直接請求されたこともない。ただ、よその人で、自分は刑務所を出てから、その人から聞いたが、I子はこの人に金を渡してくれということだったようである。

昭和一一年七月の羽黒神社の祭礼当日、E子が飲食店を出したのを手伝った。神社からE子の家までは約三里以上離れていた。帰りは羽黒がまだ明るいうちに出発し、E子の店に着いたのは夜の八時半か九時ころか、そんなに遅くはなかった。九時ころ御飯を食べたのち、自分は茶の間の炉端でうたた寝をし、その後L子かM子に起こされ、隣の部屋に寝たのが一時か一時半ころであった。E子は、そのとき何をしていたか判らないが、まだ起きて何かしていたらしい。E子の寝る部屋は、四畳間であった。客は一組か二組来て、茶の間かどこかで飲んでいたようだが、自分がうたた寝から目が覚めた時は客はもう居なかった。

L子が寝てから彼女と関係した。M子は当時子供だったので、L子と関係を持つ前に眠ってしまっていた。自分はL子と関係したのち疲れていたのですぐ眠ってしまった。寝ついたのは、堤防の傍らの古い時計が二時を打つのを聞いたのちである。

「ウワーッ」という物凄い悲鳴を聞いて眼を覚まし、上半身を起こして膝をついたまま、襖の一枚を右側に開けたところ、E子が真正面から真っ直ぐ入ってきて、自分の足元に倒れた。自分は、座った儘の片膝で、「どうした、どうした」と揺り動かしたが、E子は何も言わずに「ファーファー」と言ったきりぐったりして、布団のうえにうつ伏せに倒れてしまった。このとき血がついているのがわかった。傷口は、左側の腕から心臓にかけてやられていた。

女中達も皆一緒に起きて来たようである。それからN子のところに知らせに行くことになり、二人がE子の子供を抱いて出て行った。N子は、E子と親子のようにしていたからである。E子の店には、電話はなかったようである。また、当時は近くに交番や派出所がなく、警察までは三キロから五キロほどと遠かった。女中たちは、N子とN子の息子を連れて戻って来たが、帰ってくるまで往復三〇分位かかったようである。自分は、店の前の道路に出て、女中らの帰って来るのを待っていたが、その間に川上の方から拍子木を叩いて来た老人に会ったが、気が動転していたので、E子が殺されたとは言わなかった。

E子が刺されたとき、E子が大きな叫び声を上げたが、そのときは人の足音は分からなかった。側に一緒に寝ていた子供の泣き声も聞こえなかった。一緒に寝ていた女中二人とその後、当時階段の下に誰かいたらしいと話したこともない。茶の間の電灯を利用していたので、E子が入って来たとき、暗いけれども顔が判らないというほどのことではなかった。

警察にはその場から、自分のほか女中二人とN子も連れて行かれ、そのまま泊められた。警察に連れて行かれてからは、警察官の溜まり場の板の間にござ一枚を敷いて、正座させられ、足を動かしたり、体を支えたりすると、口が開けなくなるほど顔を殴られた。また、公会堂では、竹刀で殴られ、柔道で投げ飛ばされるなど、そんなことは数え切れないほどやられた。警察に拘束されて四、五日経ってから逮捕された。E子の客や男の人たちが七、八人調べられたらしいが、自分は、他に犯人がいないからと徹底的に調べられ、女中たちは自分が白状したときに出られたらしい。

いくら弁解しても聞き入れられず、拷問されて警察の言うがままに作り話をさせられたものである。事件当日、羽黒神社で「マキリ」を拾ったことはないのに、羽黒神社の山で大便をしに行ったとき拾って来て、馬車の中に隠したことにされてしまった。川に捨てたことも、自分の作り話になるわけである。刃物は最初から岩木川に捨てたことにしたが、当時旧六月で水が少なかったのに、消防団がいくら捜しても出てこないわけである。「マキリ」を障子の間から土間に捨てたということも、警察があまり叩くから、警察に合わせて自分の考え出したことである。「マキリ」は予審判事に図を書いて示したが、そうではないだろうと大きく書かされた。また、予審判事には何回も聞かれ、その都度、三回や四回警察に戻されて調べ直され、その度に警察で殴られるので、「マキリ」は、女中がN子のところに行って帰るまでの三〇分間に自分が外に出て川のそばの水を計るところに捨てたことにされてしまったのである。

動機については、昼夜ぶっ通しで拷問され、I子に金をやるためにE子を殺したことにさせられた。E子は、金を持っていると言っても微々たるもので、溜めているとは思ってもいなかった。

自分の着ているものに点々と血痕がついているのは、警察がそういう具合にこしらえたもので、自分がランニングシャツを後ろ前に着たことなどはない。申又の後ろの血は馬の虻の血だと思うし、右の方の血は、E子が倒れたとき受け止めたり動かしたりしたことで付いたものかどうか、よく判らない。

F'が犯人だと思う根拠は、自分たちの寝ていた部屋の下の床下に地下足袋の足痕があり、外部からの足痕もあったが、F'が地下足袋を履いていたことは、自分とE子の姉の夫とF'の三人が山で休んでいたときにはっきり見て、覚えている。F'も羽黒神社の祭礼で衣類の店を出していたが、自転車で早く帰り、E子の店で飲んだのではないかと思う。F'は、まだ皆が帰らないうちに一杯飲んで、今晩やるんだと、N子に言ったに違いない。F'も、警察で調べられたらしいがどんなものであったかは分からない。なお、刑務所を出てからのことで、「R」の斡旋で、北海道に住むF'に会いに行ったが、そのとき、F'は「私はやっていない。足痕のことは嘘だ、地下足袋は履いたおぼえがない」と言っていた。しかし、自分が、山で休憩したときは貴方は地下足袋を履いていたではないかと言ったら、F'は困ったような言い方をしていた。

第一審の法廷では、自分は否認し、弁護人であった寺井俊夫弁護士も絶対無罪を確信していたらしいが、犯人が誰だとは言っていなかった。

(2) Rからの事情聴取書(昭和五三年一〇月一四日に聴取したもの)

自分は、昭和三一年当時、東奥日報五所川原支局に勤務しており、Aに関して取材をした。

同年九月二〇日、Aと共にF'宅を訪問した。自分が「F'さんですか」と聞いているとき、Aが飛び込んで来て「あなた、私を知っているでしょう」と言ったが、F'は「私は知らない」と答えた。また、Aが「地下足袋の跡を現場に残して来たろう」と言ったのに対して、F'は「地下足袋は履いたことがない」と答えていた。F'も興奮しており、事件のことは大分詳しく知っているように見受けられたが、開き直って「出るところへ出た方がよいだろう」ということになった。

「F'が地下足袋と凶器を当時間借りしていたH方地下に埋めた」という話を聞いたのは、この九月二〇日よりは後のことである。しかし、「E子を殺した道具を床下に埋めた」という話は、五所川原に昔からあったものである。

F'の妻が五所川原の東町のT方に同女の母親と娘と一緒に住んでいたので、自分が訪ねて行ったところ、母親が出てきて、「その話は駄目だ」と言い、とりつくしまもなかった。二回目に訪問したとき、本人は、知っているとも知らないとも言いたくないと言っていた。

F'は、E子の殺しの現場から三〇〇メートル位のところに位置するH方に間借りしていた。H方は、火事で二回焼けているが、どこがF'の借りていた部屋かはすぐ特定できる。

(3) M"(M)子の供述の聴取書(昭和五四年九月一五日に聴取したもの、図面三枚添付)

事件当日、羽黒山から帰ってきたのは一一時か一一時半ころであったが、自分たちの寝たのは午前二時近かったと思う。殺されたE子は、酔っていたので先に寝た。Aも、眠いから茶の間でうたた寝していたようである。E子の寝た部屋は四畳か四畳半の間である。自分とA、L子の三人が寝たのは六畳間で、自分は頭を岩木川の方に向け、AとL子は道路の方に頭を向けて寝ていた。蚊帳を吊っていたかどうか記憶がない。

「M'子、M'子、母さんが殺された」というAの叫び声で目を覚ましたところ、自分の左足先の方にE子の足が掛かり、Aの右肩あたりにE子の頭があったような状態であった。Aは、自分の方を向いて、その膝の上にE子を乗せ、「母ちゃん、どうしたのどうしたの」と叫びながら、E子を揺り動かした。Aと自分とは向かい合う恰好であった。Aは、正座しているような形で、E子の身体全部を抱きかかえていたものではなかった。また、「M'ちゃんM'ちゃん」と呼ばれて目を覚ましたとき、寝ていた部屋の襖一枚(四枚のうちの真ん中の一枚)が自分の右肩に倒れていた。AがE子を揺さぶっているとき、自分もE子の創口をみたが、細い長い刃物で左側の胸を刺してから抉ったような創であり、創は二つあったと思う。そのとき、Aはシャツと腹巻、薄いメリヤスの広い申又のようなものを着ており、シャツが後ろ前というものではなかったと思う。

その後、自分とL子がAに言われてN子に知らせに行ったが、三人で帰って来て間もなく、警察官が二人位来て、自分たちがまだ家にはいらないうちに四人とも五所川原警察署に連れて行かれた。警察には、連れて行かれてから一二日間泊めておかれた。六畳か八畳の部屋に入れられて、自分とL子、N子、I子が部屋の各隅に一人ずつ離しておかれ、便所のときは警官が付添い、食事はその部屋でし、調べられるときは二階の部屋に一人ずつ連れて行かれた。調べられたのは、最初一日に二回から三回位で、何時に帰って、何時に寝て、事件のときは何時ころかなどという調べであったが、四、五日経ってから、警察官らから、L子はAが殺したと言っているのに、何であんたは知らないのかなどと言われたり、テーブルを叩いて「うそをつくと、お前も同罪だぞ」等と言われて脅かされたりした。L子の供述と少しでも違うと嘘をついていると責められた。

予審訊問調書に書かれているような「Aが自分の右腕を突いて、警察に訊ねられたら何も判らないと言えと睨み付けられた」ということはなかった。それは、L子が言っているのに、お前ばかり何で言わないのかと警察で言われた。

Aは、警察で廊下に一二日間おかれていたが、椅子に座っていたかずっと正座させられていたかどうかは分からない。正座させられていたときは、動くと警察に突つかれていたようである。Aは、恐らく二四時間ろくに眠っていなかったと思う。Aの両側には警察が付いていた。Aが二階で調べられるとき、何か唸るような声が聞こえていたし、警察が机を叩く音も聞こえていた。そして帰されて来たときはAの顔が変になっていた。

自分がE子の息子のS(当時三歳)を背負ってN子方に行ったとき、Sに誰がやったのと聞いたら、「知らないオジちゃんオジちゃん」と言っていた。Sは、小学校一年か二年で亡くなったと聞いている。

(供述者が本聴取書にした署名は、「M"子」である。供述者の生年月日は大正一二年三月一八日)

(4) L"子(旧姓「L子」)の供述の聴取書(昭和五四年九月一九日に聴取したもの、図面一枚及び新聞二頁写し添付)

事件の起きた日に自分たちがどこへ行ったか分からない。羽黒神社と言われても、どこにあるのか分からない。お祭りには誰も行かなかったと思う。

Aのことは知っている。M'ちゃんは誰だか分からない。自分は、子供のお守りをしていた。自分が店で「L'子」と呼ばれていたかどうか、はっきり分からない。

E子は殺されたとき下の部屋に寝ていた。自分とA、M'ちゃんは上の方の部屋で寝ていた。当夜、自分がAと関係を持ったことなど全くない。子供が声高く泣いたので眼を覚まし、Aが「何んだ、何んだ」と言いながら、下の方に降りて行った。子供の泣き声で、皆が一緒に目が覚めたように思う。自分も階段を降りて地下の部屋に行ったところ、E子が血だらけになっていたので、気が動転し、すぐ子供を背負って「醤油屋のおばさん」のところに知らせに行こうと思って、オロオロしていた。自分が子供を背負って、N子さんのところに行ったが、もう一人の女の子が一緒に行ったかどうか、自分一人だったような気がする。

事件の関係で、えらい目にあったが、そのとき警察に連れて行かれて泊められたのか外で調べられたのか分からない。Aが警察で殴られたかどうか分からない。Aが刑務所に入れられたことも、七年前にモーニングショウで東京に行き、Aに会うまで知らなかった。

F'は、朝鮮の人でおばさんと一緒によく店に飲みに来ていた。E子とは深い仲ではなかったと思う。

自分は血圧が高くて、物忘れがひどい。

(供述者が本聴取書にした署名は「L'''子」である。供述者の生年月日は大正七年四月八日)

(5) 黒川広重の供述の聴取書(昭和五四年一〇月二〇日に聴取したもの)

昭和一一年一〇月八日付け鑑定書を作成した当時、自分は、岩手医学専門学校法医学教室にいた。シャツ、申又、胴巻いずれについても、その扱いは、自分一人でできないときに助手に手伝わせたのは別として、自分が全部それを行った。

申又に付着したAの分泌物が精液であったのか汗その他であったのか、今では分からない。本件鑑定の結果は、現在の科学的操作によってもこれが変わるようなことはない。

シャツに付いた血痕の状態から、どの位の距離から飛沫を受けたかは分からない。飛沫の状態から、動脈が切れたことは分かるが、大きい動脈か小さい動脈かは分からない。静脈のときに飛び散ることはない。AがE子の頭を上に向けて膝の上に抱えたとした場合、E子が生きていれば、着ていた着物にもよるが、飛沫血痕が付くこともある。「ル」の血痕は、滑ったような、何か擦過的なもののような記憶がある。古い血という記憶はない。蚤の糞は塊りとなっており、毛もついており、取ると取れるが、血が泌み込んだときは裏表に泌み込んでいるので、取ることができない。

自分が解剖していないので分からないことではあるが、被害者が三つの部屋を歩いたというのであれば、大きな血管が切れたのではないと思う。もっとも、血管の大きさによっては、一町位歩くこともあるのである。

(供述者が本聴取書にした署名は「黒川広重」である。)

(6) Hの供述の聴取書(昭和五八年八月一七日に聴取したもの、図面一枚及び写真一枚添付)

自分は、昭和一一年七月当時、五所川原農学校二年生で、数え年一五歳(本聴取当時、六二歳)であった。F'は、本件当時の前後一、二年位自分の亡父から自分の家の一室(六畳間)を間借りし、新婚間もないG'子さんという奥さんと一緒に住んでいた。F'は、当時、二二、三歳であったと思う。

自分は、事件当夜(昭和一一年七月二一日)、F'の部屋の隣の八畳間に寝ていたが、暑苦しくて眠られず、夜明けだったから午前三時ころと思うが、F'が地下足袋を履いて、夏シャツを着た姿で土間からその借りていた部屋に入って来たのを見た。当時、夏の暑いときで、戸を開けっぱなしにしていたので、F'の入ってくるのは丸見えであった。シャツは下着で、その下着の前の方にかなり大きく血が付いていた。何か「もの」を持っているのを見たという記憶はない。F'は、帰って来たところを自分に見られたことは分かっているのではないかと、自分はそう思っている。

F'の姿を見たことは、朝食のとき、両親に話したが、「そんなことは人に話してはいけない。警察もうるさいから」などと両親に言われ、その後誰にも話したこともないし、警察から聴かれたこともない。下着の血のことについて、両親は「けんか」でもしてきたんだろうと言っていた。終戦後間もなく、上野駅でばったりF'と会ったことがあるが、F'とも事件のことは何も話していない。ただ、先日、刃物がF'に貸していた部屋の床下から出て来たとき、昔のことを思い出して、読売新聞青森支局の人に話した。

自分の記憶では、F'は、当時警察に一〇日以上留めておかれ、帰って来たときは、警察で大分殴られたらしく、顔の恰好もないほど腫れ上がっていた。その後、夫婦で北海道に行ったと聞いている。

F'の部屋は、六畳の畳敷で、下の床板は釘が打ってなかったので、いつでも起こせたし、押入れも、ござも敷いてない板敷で、釘も打ってなかったから、いつでも簡単に起こせるようになっていた。

2  右議事録(第三回)等綴中の写真一五枚(図面四枚添付)

本写真一五枚は、昭和五八年八月一七日に五所川原市《番地省略》所在のH方の建築現場において、請求人提出に係る刃物一本(前記押号の二)が発見された場所、発見当時の復元状況等を撮影したもの。

3  右議事録(第三回)等綴中の西丸与一(横浜市立大学医学部教授)作成の鑑定書写し

右刃物一本に人血が付着しているかどうか、付着しているとすればその血液型は何かという鑑定事項について、鑑定することは、この物件が著しく古く腐蝕がひどいため不能である、と記載されている。

4  録音テープ(前記押号の一〇。なお、同押号の七及び八は、この符号一〇の録音テープ一巻を二巻に分けて再録音をしたもの)中のAの供述(昭和四五年一一月一〇日、Uとの対話を録音したもの)の要旨

自分たちは、七月二一日の午前四時ころから警察に捕まっていた。役職のある人の部屋と思われる部屋で、板の間にござを敷き、他の人達、L子、M子、N子、F'らも一緒にいたが、二日位経ってから自分一人にされた。

主として笹田刑事から事情を聴かれた。警察官らが六、七人も一緒におり、真ん中にいる笹田刑事から聴かれ、傍らにいる者らが自分を公会堂(剣道か柔道として使われていた畳敷きの場所である。)に連れて行っては竹刀で叩き、柔道で投げるなどし、また調室に連れ戻されて笹田刑事から聴かれるということの繰り返しで、警察のいうとおりにした。また、警察署長が調書をとったし、一週間か一〇日位して青森市柳町の未決に入ってから、予審判事が調書を作った。

警察に行く途中、M子やN子らに「何もいうな」などと話したことはない。

刃物について、始めは「ジャックナイフ」でやったと言ったが、茶の間に掛かっていた「ジャックナイフ」には血も何も付いていないということで、警察をだましたと言っては殴られた。刃物は、岩木川の橋の真ん中に投げたと言ったが、当時は夏で水嵩がなく、膝から下位の深さで、水も綺麗だし、下は砂だから刃物などは見えると思われる。

N子が警察に知らせたら、走って来たのは岩淵という巡査であった。岩淵巡査と裏口に出る階段を一緒に降りてみたが、暗かったし、土足のままで上り下りができるので、血等は見えなかった。E子の寝ていた居間には籾殻が落ちていた。E子は座布団を二つ折りにして枕に使っていたので、枕から籾殻が落ちるはずがない。自分たちの寝ていた部屋の下は、土間で、元精米所だったから籾殻が一杯あった。

裁判では、一審、二審、三審とも、終始否認していたし、青森地方裁判所の公判では、自分は警察の言うがままにした、拷問されるからだと答えている。証人調べは、何もなかった。陪審裁判にするか普通裁判にするかということであったが、弁護人が普通裁判にしてもらうと言ってくれた。

(以上のほか、E子が六畳間に入って来たときの状況、女中らがN子方に知らせに行った際、被告人が外に出て夜警番と出会ったことなどについて、前記議事録(第三回)等綴中の被告人の供述の聴取書(昭和五五年二月一六日に聴取したもの)と同趣旨の供述をしている。)

5  刃物一本(前記押号の二)

昭和五八年七月二一日に五所川原市《番地省略》所在のH方の建築現場において発見されたというもの。錆びて朽ち、ばらばらになっている状態で、箱の中に入れられている。

第五当裁判所の判断

本件再審請求の理由は、前記第二にその要旨を記載したとおりであって、法律上の構成については必ずしも明確でない点もあるとはいえ、結局のところ、Aに対し無罪を言い渡すべき明確なる証拠を新たに発見したとして、旧刑訴法四八五条六号に該当する事由があることを主張するものと解される。

そこで、この観点から以下に検討することとする。

一  請求人提出の各証拠資料の新規性等

(1)  前記議事録(第三回)等綴中のAの供述の聴取書(昭和五五年二月一六日に聴取したもの、図面一枚添付)及び前記録音テープ(前記押号の一〇)中のAの供述(昭和四五年一一月一〇日、佐藤正毅との対話を録音したもの)について

本聴取書及び右録音テープ中のAの供述(以下「Aの新供述」という。)は、前記のとおり同人がE子の殺害に関与していないことや警察で拷問されて自白するに至ったことなどを述べるものである。この点、Aは、第一審から全面的に無罪を主張していたことは窺えるものの、事件発生当時の状況や警察で加えられたという拷問等に関し、同人が公判段階において被告人としてどのような供述をしたか(本件各判決の証拠説明中に控訴審公判廷における供述の一部が掲げられているが、犯行への関与や拷問等に関する部分は掲げられていない。)は、具体的にはほとんど明らかではない。とはいえ、Aの新供述の内容及び二審の弁護人であったと窺える佐々木常助弁護士の作成した弁論要旨(請求人提出の証拠保全請求書等綴(前記押号の一)中に綴られているもの)に照らし、F'ことFが犯人であるとする点を除いて、Aの供述は、公判段階からほぼ一貫していたものと窺え、青森弁護士会人権擁護委員会から事情を聴取された際やUと対話した際にそれまでの供述を著しく変更したものとは到底考えられない。すなわち、Aの新供述については、旧刑訴法四八五条六号にいわゆる新規性があるものとは認められない。なお、Fが犯人めあると述べる点は、Aの新供述自体としては、単なる推測ないし意見であって、証拠としての意味を持つものではない。

(2)  右議事録(第三回)等綴中のRからの事情聴取書(昭和五三年一〇月一四日に聴取したもの)について

本事情聴取書の記載内容は、AがFの許を訪ねた際、Fが自分が犯人であることを否定する態度を取っていた事実や、RがFの妻から話を聞こうとして、結局、話を聞くことができなかった事実などを、Rが述べたというものであって、Aが本件につき無罪であることを裏付ける資料となるものでないことは明らかである。

(3)  右議事録(第三回)第綴中のM"子(M子)の供述の聴取書(昭和五四年九月一五日に聴取したもの、図面三枚添付)について

本聴取書中のM"子(M子)の供述(以下「M子の新供述」という。)のうち、本件事件発生当時の状況に関する部分は、証人M子に対する予審訊問調書と対比してみるとき、細かい点の食い違いはともかく、自分が気付いたときはE子が血を流して自分たちの寝床に倒れていたという基本的な筋においては一致し、この点新しく発見した証拠ということはできない。ただ、警察の取調べの状況に関する部分は、Aがかなり厳しい扱いを受けていたと述べる点を含め、本件審理段階でM"子(M子)が述べていたとは考えられず、この部分に関しては新規な証拠と認めることができないではない。もっとも、M子の新供述も、Aの受けた扱いに関しさほど具体的に述べるものではなく、これによって直ちに同人が拷問されたと認定することは困難である。

(4)  右議事録(第三回)等綴中のL"子(旧姓「L子」)の供述の聴取書(昭和五四年九月一九日に聴取したもの、図面一枚及び新聞二頁写し添付)について

本聴取書に記載されたL"子(旧姓「L子」)の供述については、同女自身が右供述中で認めているように、右供述を行った時点において、同女がいわゆる物忘れの激しい状態にあったものと窺える。本件に関しても、例えばE子が本件当時就寝したのは階上の四畳間であったことは、本件公判において取り調べられた各証拠によるときはもとより、Aの新供述やM子の新供述においてもその旨述べているのに、L"子は、右供述中では、E子が階下の部屋で就寝していたことを前提にして、事件の起きたことを知った際の状況を述べており、右のような供述自体によっても、同女がほとんど記憶を失っていることが明らかである。したがって、L子の右供述は、L子に対する予審訊問調書と食い違うとはいえ、全く証拠としての意味を持たないものであって、新規性などを問題にする余地はない。

(5)  右議事録(第三回)等綴中の黒川広重の供述の聴取書(昭和五四年一〇月二〇日に聴取したもの)について

本聴取書中の黒川広重の供述は、「鑑定人黒川廣重作成の鑑定書」に記載した鑑定結果は誤りがないことを前提に、これを補充し或いは関連する事項について若干述べたものにすぎず、その意味で新たに発見された証拠ではない。のみならず、黒川広重の右供述は、右鑑定書に比しさほど重要な意味を持つものではないが、もともと右鑑定書と同じ方向に向かう証拠であって、Aと本件犯行との結び付きを否定する根拠となり得るものではない。

(6)  右議事録(第三回)等綴中のHの供述の聴取書(昭和五八年八月一七日に聴取したもの、図面一枚及び写真一枚添付)について

本聴取書中のHの供述は、昭和一一年七月二一日午前三時ころ(大審院判決においてはE子が殺害された時刻を午前二時過ぎころと認定しており、これを前提とすると、その直後に当たる)、五所川原町(当時)所在のH方(前記Rからの事情聴取書によると、E子方との距離は三〇〇メートル位に過ぎなかったものと窺える。)において、F'ことF(二二、三歳位の男性)が地下足袋を履き、夏シャツを着用した姿で戸外から同人の間借りしていた部屋に帰って来たのを見掛けたが、その際同人の着るシャツの前の方に大きく血が付いているのが見えたという趣旨のことを述べるものである。たしかに、Hの右供述は、仮にFがE子を殺害した犯人であるとすれば、その事実を裏付ける資料となり得るものであって、所論がこれをAが有罪であることに疑いを抱かせる証拠であると主張していることに全く理由がないわけではない。また、Hが右のような供述をしたのは、大審院判決後の昭和五八年八月であり、その以前に同人自身はもとより他の誰も同趣旨の供述をしていないことが明らかであるから、Hの右供述が新たに発見した証拠に当たることも肯認できる。もっとも、この供述が、FがE子を殺害した事実を認定する直接的な証拠ではないことは、右のような供述内容自体に照らし明らかであり、したがって、他の証拠と総合してAに対し「無罪を言い渡すべき明確なる証拠」に当たるかどうかは、後に改めて検討することとする。

(7)  前記刃物一本(前記押号の二)並びに右議事録(第三回)等綴中の写真一五枚(図面四枚添付)及び西丸与一(横浜市立大学医学部教授)作成の鑑定書写しについて

右刃物一本について、所論はE子を殺害するのに用いられた凶器であると主張しているところ、右刃物が発見された場所や発見当時の復元状況等を撮影したという右写真一五枚及び前記Hの供述を総合すると、右刃物は、前記H方の、本件当時Fの間借りしていた部屋の押入れの床下に当たる箇所から、昭和五八年七月ころ、土中に埋められた状態で発見されたものであることが認められる。したがって、所論との関係において、右刃物一本は右写真一五枚と併せて、新しく発見された証拠ということができる。ただ、大審院判決の挙示する鑑定人佐野眞一作成の昭和一一年七月二七日付け鑑定書によれば、E子殺害に用いられた凶器は鋭利な片刃の刃物であったと窺われるところ、右刃物一本は、発見された際には錆びて朽ち、ばらばらになっている状態で、その形状、長さ等もはっきりせず、右刃物自体によっても、その形状等において本件凶器のそれと一致するものかどうか知ることはできない。また、西丸与一(横浜市立大学医学部教授)作成の鑑定書写しには、右刃物に人血が付いているかどうか鑑定することはこの刃物が著しく古く腐蝕がひどいため不能であると記載されており、現在において、右刃物に人血が付着しているかどうかを知ることもできないというほかない。このように、右刃物については、発見された場所以外には、それ自体の形状その他から本件事件との繋がりを窺わせる証左等を見出すことは困難であるが、他の証拠と総合してAに対し「無罪を言い渡すべき明確なる証拠」といえるかどうかは、更に改めて検討することとする。

(8)  その他

請求人は、前記第四の二記載のとおり、証拠資料として証拠保全請求書等綴一冊ほか二一点(当庁平成元年押第二七六号の一ないし二二)を提出しているが、前記(1)ないし(7)において検討した各資料以外の資料は、本件と直接に関連性のないもの、内容が極めて断片的で証拠としての意味を持たないもの、単に意見が記載されているにとどまるもの、或いは新聞や雑誌の写し等であって、いずれについてもこれ以上各別にいわゆる新規性や明白性について検討する必要はないものと認められる。

二  新たに発見した証拠が旧刑訴法四八五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明確なる証拠」であるかどうかについては、当該証拠がその事件の公判審理中に提出されていたとするならば、はたして確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当該証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきものと解される。そこで、そのような観点から、請求人提出の各証拠資料についても、とりわけ前記一で検討したように新たに発見した証拠と認められる前記議事録(第三回)等綴中のHの供述の聴取書、前記刃物一本並びに右議事録(第三回)等綴中の写真一五枚(図面四枚添付)を中心に、これらの各証拠資料を前記第四の一に掲げた各証拠すなわち本件事件の公判審理で取り調べられたと窺われる各証拠(以下「取調べ済証拠」という。)に加えて総合的に考察し、大審院判決の認定判示する犯罪事実を認めることに合理的な疑いが生じるかどうか検討することとする。

1  まず、現場の状況については、大審院判決に掲げられた証拠からはこれを明確に把握することは困難である。控訴審判決の証拠説明においても強制処分における検証調書(担当の予審判事が途中で交替し、いずれの予審判事も強制処分として検証を行い、その結果検証調書が少なくとも二通作成されたと窺われるが、控訴審判決に挙示された検証調書は、最初のもののようである。)の一部が挙示されているだけである。そこで、右検証調書のほか、取調べ済証拠中の被告人の供述、証人等の予審判事に対する供述に加え、請求人提出の証拠資料中のAの新供述、M子の新供述等を併せて検討すると、現場の状況は、概ね次のようなものであったものと認められる。

① E子方家屋は、岩木川に架けられた乾橋の橋際近くの、同橋から東方に向かう道路の北側に、道路に面して建てられた二階建造りの店舗兼居宅であったが、道路が堤防と同じ高さにあり、道路の両側が低くなっているところから、道路から直接出入りできるのは階上の店(飲食店)の部分であったこと

② 店舗部分は、道路に面した三坪がコンクリート敷の土間となり、その奥左手の二坪が板敷であって、その板敷の奥に八寸(約二四センチメートル)高い幅一尺(約三〇センチメートル)、長さ二間(約一・八メートル)の踏板があり、これに接して八畳間があったこと

③ 右板敷の東側に板が立てられて、その東側一坪が区画され、その一坪の東側半分が階下の土間に通じる階段の昇降口となり、西側半分が物置のような形で使われ、階段下り口際には下駄箱一個が、その南隅近くに漬物桶一個が置かれるなどしていたこと

④ この物置のように使われていた部分に接して四畳間があり、その境はガラス戸で仕切られ、また、四畳間の西側が前記八畳間であって、その境もガラス戸で仕切られていたこと、なお、八畳間には炉があったこと

⑤ 階上は、右八畳間の西側が六畳間であり、その境は襖で仕切られ、六畳間の南側すなわち店舗部分の西側は調理場となっており、調理場の北西隅も階下の土間に通じる階段の昇降口となっていたこと

⑥ 東側の階段を階下の土間に下りると、階段正面に便所の囲いがあり、その左側に戸外に通じる板戸があったこと

⑦ 階下は、北側に六畳間が二間並び、廊下を隔ててその南側に六畳間が一間あり、その余の部分は土間となっていたこと

などが認められる。

また、事件発生後の現場の状況に関し、控訴審判決の証拠説明に挙示された検証調書中には前記第四の一(12)のとおり血痕と窺われる汚点の存在について記載されている。すなわち、板敷の上には、八畳への踏板より南方五寸五分位(約一七センチメートル)、板構の西方約八寸(約二四センチメートル)の箇所に一個あった大豆大の汚点、これより約八寸(約二四センチメートル)東南方に半円を描いた範囲内に点々と存在した、大きいものでは大豆大又は五錢白銅貨大位の暗褐色の汚点、該汚点のある箇所より八畳間の敷居までの間で、階段の東側より西方に約八寸(約二四センチメートル)、敷居より南へ約二寸(約六センチメートル)の箇所にあった小豆大と覚しきやや赤味を帯びた黒色の汚点、それより西方約一尺(約三〇センチメートル)離れた踏板上にあった数個の同様の汚点などのあったことが認められる。そして、鑑定人佐野眞一作成の昭和一一年八月八日付け鑑定書によると、右各汚点のうち検証に際して切り取ったものについて人血が付着したものかどうか鑑定した結果、その汚点が人血の血痕であって、血液型はO型であったことが認められる。

なお、前記佐々木弁護士作成の弁論要旨には、検証調書中に「四畳間に籾殻若干が散乱していた」と書かれていた旨の記載がある。

2  AとE子との間柄、本件事件発生の前日である昭和一一年七月二〇日ころの状況等に関しては、取調べ済証拠中の被告人の供述とAの新供述との間に、細かい食い違いは別として、基本的な筋においては異なる点はない。さらに、本件事件発生直後の状況についても、M子が目を覚ました後のことにあっては、取調べ済証拠とAの新供述及びM子の新供述との間に大きな食い違いはなく、大筋の流れにおいても一致している。すなわち、取調べ済証拠及び請求人提出の証拠資料を総合すると、次のような事実が明らかである。

(1) 本件事件が発生した当時、E子は、青森県北津軽郡五所川原町《番地省略》で飲食店を経営し、同女方にはいわゆる住み込みの女中としてL"子(L'子)ことL子(当時一八歳)及びM'ちゃんことM子(当時一三歳)が雇われていたこと

(2) Aは、昭和三年ころ、同県西津軽郡《番地省略》に住んで同村所在の酒店で働いていたころ、右五所川原町の飲食店等に酒の配達などをしていたことから、当時同町寺町所在の飲食店で女中として雇われていたE子と知り合ったが、その後しばらくAにおいては東京に働きに出掛けていたものの、昭和一〇年五月ころ東京から右水元村《番地省略》に立ち帰って来たのち、右のように五所川原町の岩木川に架けられた乾橋の東際でE子が飲食店を営んでいることを知り、時々同女方に立ち寄るようになり、同年一一月ころからは時折同女方に宿泊して掃除、雪掻きその他の雑用をしてやっていたこと、もっとも、本件事件発生当時、E子といわゆる男女の深い仲になっていたものではなかったこと

(3) Aは、昭和一〇年夏ころから、当時E子方に手伝いがてらやって来ていたI子と肉体関係を持つようになり、同女には夫がいたにもかかわらず、同女とは当時一般では色男情婦と呼ばれるような間柄になっていたこと

(4) 昭和一一年七月二〇日、青森県中津軽郡裾野村所在の羽黒神社の祭礼に際し、E子が同神社境内に茶屋掛けをすることになり、同日早朝、L子、M子らを連れて同神社に出掛け、Aもその手伝いとして一足遅れた形でこれに同行し、夕方までいわゆる商いをしたのち、同日午後一一時過ぎころ、A、E子、L子、M子らが連れ立って前記E子方に立ち帰って来たこと

(5) E子は、右茶屋掛けである程度の売上げは得たものの、余り儲からなかったため、もともと羽黒神社の祭礼に出店を出すことについて、同女としては気乗りがしていなかったのにAに強く勧められてこれをやることになったものであったことから、同人に対し不機嫌な様子を示していたこと

(6) Aらが右E子方に立ち帰って間もなく、二人連れの客が来て、階下の六畳間の一室で飲酒し、その客たちは午後一二時ころ帰ったものの、入れ替わりにもう一組二人連れの客が来て、階上西側の六畳間で飲酒を始めたこと

(7) そのため、L子及びM子は、その客らの接待に当たったが、E子は、午後一二時ころ、L子らに「客が帰ったら早く寝ろ」などと言いつけた上、階上東側の四畳間で自分の子供(当時三歳位)と一緒に就寝し、また、Aは、階上中央の八畳間の炉端で横になり、いわゆるうたた寝をしていたこと

(8) E子は、右四畳間に蚊帳を吊り、その中に南北に長く寝床を取り、南枕で、また、子供に添い寝をする形で、裸の上に丹前を掛けるようにして横になっていたこと、なお、L子が翌二一日午前一時四〇分過ぎころ、客らが帰る際に代金の釣りが要ることになったことから、右四畳間に行き、E子を起こして釣り銭を貰った際、同女が子供の枕としていた二つ折り座蒲団の間から縞の財布を取り出し、その中から金銭を取り出したこと

(9) L子らは、右のように客らが帰ったので、戸締りなどした上、階上西側の六畳間に蚊帳を吊り、その中に寝床を三つ敷き(三つをどのような形で敷いたかは、必ずしもはっきりしない。)、同日午前二時ころ、自分たちも右寝床に入るとともに、前記のように八畳間で仮睡していたAを揺り起こして同人にも右六畳間に敷いた寝床の一つに入らせたこと、M子においては間もなく眠り込んでしまったこと

(10) Aは、寝床に入るに当たりズボンとワイシャツを脱いだが、「証第十四号の猿又」及び「証第一八号の襯衣」を着たままであったこと

(11) Aは、以前よりL子と肉体関係があったことから、右寝床に入って間もなく同女と関係を持ったが、同女においてはその直後に眠り込んでしまったこと

(12) M子が「M'子、M'子」などと呼び掛ける声で目を覚ましたとき、E子がM子の寝床の足元の方に倒れ、AがE子の頭を自分の膝の上に乗せ、髪を掴んで揺り動かしながら「かあさん、どうしたんだ、どうしたんだ」などと言っていたが、その際同女の左胸辺りが血で真っ赤となっており、更にその後間もなくE子が死亡したような様子を示したこと

(13) AがL子らに「早くN"子に知らせろ」と言い付け、そのころ四畳間から子供が泣きながら出て来たので、Mがその子供を背負い、同女とL子の二人がE子と親しかったN子の家に急いで知らせに赴いたこと

(14) Aは、L子らがN子方に出掛けたのち、自分もE子方の戸外に出るなどしていたが、戸外に出た際、道路上でいわゆる夜廻りの者と出会ったにもかかわらず、その者に本件事件の発生したことを一切告げていないこと

などの事実が認定できる。

3  ところで、M子が目を覚ます前の状況に関し、証人L子に対する予審訊問調書(以下「L子の予審供述」という。)中で、L子は自分が目を覚ました直後にAがE子の後ろに付いて来ているのを見たという趣旨の供述をしているところ、取調べ済証拠中の被告人の供述はこれと符合するとはいえ、Aの新供述ではそのような事実のあったことを強く否定している。その意味で、L子の述べるような状況があったかどうかは、同女の右供述が信用できるかどうかにかかっている。そして、この点、前記議事録(第三回)等綴中のL'''子の供述の聴取書に記載された同女の供述が全く証拠価値を持たないものであることは、前記一の(4)で判断を示したとおりであり、これとの食い違いがあることでL子の予審供述の信用性が影響を受けるものでないことは明らかである。L子の予審供述それ自体をみても、全体的に前後の流れが自然で、大筋においてはM子らの供述と一致し、前記1認定のような現場の状況とも矛盾せず、AがE子の後ろに付いて来ている姿を目撃した旨述べている部分はたしかにL子のみが述べることとはいえ、右部分についてのみことさらに虚偽のことを述べたものとは到底考えられない。また、Aの新供述やM子の新供述によると、L子も、事件後一二日間位警察署に泊め置かれて、かなり厳しい取り調べを受けたことが窺われるが、L子の予審供述は、内容的に全てにわたって取調べ済証拠中の被告人の供述と一致するものではなく、例えばE子が四畳間で就寝していた際の子供との位置関係については、被告人の供述とは異なることを述べており、また、E子が八畳間においてあげた叫び声や同女が倒れたのちにAが同女の頭髪を掴んで揺さぶったりした際の状況などについても必ずしも一致せず、こうした供述内容に照らし、L子が警察官等に全面的に迎合してその言うがままに供述したものではないと認められる。すなわち、L子の予審供述の信用性については、これに疑念を抱くべき状況は見出せない。

以上要するに、L子の予審供述は、AがE子の後ろに付いて来ている姿を目撃した旨述べている部分を含め、全面的に信用でき、したがって、右供述によれば次のような事実が肯認できる。すなわち、L子においては、奥の方で「おわい、おわい」と大きな声がしたのを聞いて目を覚まし、奥の方を見たところ、六畳間と八畳間との間の襖の南から二枚目が約二尺ほど南の方に開き、三枚目が北の方へ一尺ほど開いた状態となっていて、E子が四畳間から右肩に丹前を引っ掛け腰巻きをしたままよろよろと出て来ているのが見えたこと、同女は、その際八畳間の炉の辺りでまた「おわい」と大声を上げながら、両手を腰の辺に出し、両手首を前の方にぶらりと下げ、ふらふらと滑るような形で、六畳間に敷いた寝床の方へやって来ていたこと、更にその際同女の背後にAが立っていたこと、L子としては当初はE子の後ろに立つ者が誰であるか分からなかったものの、寝ているはずのAの寝床にはその姿が見えなかったので、更に見直したところ、E子の後ろに立つ者がAであることが確認でき、また、同人の様子としてはE子を追い掛けている状態なのか同女を支えてやろうとしているのかはっきりしなかったものの、同女の倒れるのを左手で支えているようにも見えていたことなどが認められる。

4  右1ないし3記載のような本件現場の状況や事件発生前後の客観的状況などを総合すると、AがE子に対し刃物で突き刺すという行為に及んだ者であることが、かなり強い蓋然性をもって窺われる。とりわけ、E子が前記就寝していた四畳間から出て八畳間を通りL子らの寝ていた六畳間に到った際、Aがあたかも同女を支えるような形で同女の背後に付いていたという状況は、これを強く裏付けるのである。この点、同女の負った創傷の部位程度は次にも述べるとおり心臓まで達する貫通刺創など極めて重いものであって、そのような傷の状態に照らし、傷を負った直後でなければ、同女が立ち上がり八畳間を横切って六畳間まで歩いて行くなどということはできなかったものと考えられる。すなわち、このようにE子が四畳間からよろよろと出て来たのは刃物で突き刺されるなどされた直後のことであったと窺えるところ、前記のようにL子の予審供述によれば、同女においてはAがすでにそのころからE子の背後に立っているのを目撃していたことが認められ、したがって、これらの状況を併せ考えると、Aは、E子が刃物で突き刺されるなどされた際自らその場にいたか、どんなに遅くともまさにその直後に四畳間と八畳間の境付近に至っていたものでなければならないものと認められる。そうすると、仮に誰か他の者が本件犯行に及んだものとすれば、Aとしてはその場に至った際その犯人を目撃するか、犯行の行われたのは直前であって、犯人は逃げ出したばかりであるなどということに気付くような状況であったはずであり、もしそうであればAとしても通常そのような状況を知った場合に取る行動、例えばその犯人を追う、あるいは大声を上げてL子やM子を起こすなどという行動に出るのが自然であり、それにもかかわらずAが一切そのような行動に出ていないということは、同人が自らそのような犯行に及んだことを強く窺わせるものである。

加えて、取調べ済証拠中の黒川廣重作成の鑑定書並びに「証第十四号の猿又」及び「証第一八号の襯衣」によれば、本件事件発生当時Aが着用していた右各下着に人血の飛沫状痕が付着し、猿又に付着したものの血液型はE子の血液型と同じO型であり、なお、右下着に付着したような飛沫状痕は小動脈より迸出した血液が噴霧状となり周囲の物体に付着したときしばしば見られるものであることなどが認められる。また、E子の死因については、取調べ済証拠中の鑑定人佐野眞一作成の昭和一一年七月二七日付け鑑定書によれば、E子の死体には、右側下顎部より頚部に亘る表皮性の擦過切創、左側胸部に一個の刺切創、左側上膊部に一個の刺切創があり、これらの創傷は鋭利な片刃の刃物によって生じたものであって、同女は、左側第三肋間腔より左側肺上葉を通り左心耳左心室に亘る貫通刺創の結果、心臓から左側胸腔内に多量の出血を生じ、左肺上葉からの出血と相まって死の転帰を取ったものであったことが認定できる。

そして、前記のような客観的諸状況及びこれによって窺われる前記諸事情に加え、右のようなE子の死因や、小動脈を傷付けるような行為に及んだ際などに付着することの多い多数の飛沫状痕(E子の血液型と同じ血液型のもの)がAの当時着ていた下着に付着していることなどを総合すると、本件においてE子を刃物で刺殺するという行為に及んだ者がAであることは、その余の状況、例えばその動機、目的、刺した際の状況等は別として、合理的に十分に推認可能なのである。

更に、所論が新しく発見したという証拠によって、右のような事実の推認過程に疑念が生じるかどうか検討するに、この点、前記議事録(第三回)等綴中のHの供述の聴取書(以下「Hの供述」という。)並びに前記刃物一本及び右議事録(第三回)等綴中の写真一五枚(図面四枚添付)によると、前記のとおり本件事件が発生した直後ころFが地下足袋を履き前側に血の付いたシャツを着たという姿で、E子方からさほど遠くない同人が間借りをしていた部屋に外から帰って来た事実、及び右部屋の押入れの床下に当たる箇所から土中に埋められていた刃物が本件事件発生から約四七年経過した後に発見されたという事実が認められるのであるが、右各証拠によって認められる事実は右程度に止まり、FがE子を殺害した犯人であることを直接窺わせるような状況ないし事情などは一切認められない。むしろ、Hが見たというFのシャツ前側についていた血痕は、夜間かなり離れた所から見て血痕と気付いたというのであるから、相当大きな範囲に及ぶものであったと窺われるところ、E子の負った創傷は前記のとおり体内に多量に出血したものであって(前記佐々木弁護士作成の弁論要旨中にも、死因の鑑定に当たった前記佐野医師が予審判事に対し「一、二の傷はいずれも大して大きな血管を切っておらず、三の傷も多量の内出血を生じているが、他には大した出血はしていない。こうしたことから見て、刺されたときにも付近に血が沢山飛んだようなことはなかったと思う」と述べている旨の記載がある。)、ある程度の時間を経過しなければ傷口から血が流れ出ないものであり、かえって、刃物で刺した際に刺した者の衣類等に返り血として付着する血痕は、Aの下着にみられるような飛沫状痕であったものと窺え、その意味で逆にFのシャツにHの述べるような大きな血痕が付いていたということは、その血痕はFがE子を刺したことによって付いたものではないということを示すもの、いいかえるとFと本件犯行との繋がりを否定するものであるとも考えられる。また、前記刃物等については、前記一の(7)記載のとおり右刃物自体として本件事件との繋がりを窺わせるような状況が全くない上、請求人提出の証拠資料を全てにわたって検討しても、右刃物が、何時誰によって当該場所に埋められたものか、埋められた当時その形状がどんなものであったかということなど、全く不明で、本件事件との関係ではいわゆる自然的関連性も肯定できない。なお、所論は、犯人が外部から侵入した者である根拠として、四畳間に籾殻若干が散乱していたこと(前記のとおり前記佐々木弁護士作成の弁論要旨によると、検証調書中にその旨の記載があったことが窺える。)を掲げ、このことは犯人が階下の裏口から元精米所であって籾殻の沢山落ちている土間を通って四畳間に至ったことを示すものであるなどと主張している。しかし、この点、Aの新供述によっても事件直後に駆けつけて来た岩淵巡査がAと一緒に階下の土間の方に降りてみていることが窺え、検証までの間に他の警察官等が階上と階下とを往復したりした可能性もないでもなく、そうしたことによって籾殻が四畳間に持ち込まれた可能性も十分あって、四畳間に籾殻が散乱していたこと自体が直ちに犯人が外部から入って来た者すなわちA以外の者であることを示すものということはできない。もとより、四畳間に籾殻が散乱していたことと、Hの供述や右刃物等によって認められるFにかかる右に述べたような事実とを合わせ考慮してみても、Fが本件事件発生のころE子の方の階下の裏口から忍び込んでいたという事実を認定できるものでなく、その可能性も認めることができない。

したがって結局、前記のように取調べ済証拠によって認められる客観的な諸状況から本件犯行とAとの結び付きが推認できることにつき、所論が新しく発見した証拠というHの供述及び右刃物等を総合して検討してみても、右推論過程に疑念の生じる余地はない。

5  右のように客観的な諸状況から本件犯行とAとの結び付きが推認できることに加え、Aは、取調べ済証拠中の被告人に対する第一回及び第二回各強制処分訊問調書中において、本件犯行について詳細な自白をしている。しかし、所論は、被告人が偽りの自白したのは、拷問された結果であり、右自白は警察官らのいうとおり述べたものであるという趣旨の主張をしており、応急措置法一〇条二項に「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。」と定められているので、まずは、Aの右自白が拷問等によるものかどうか検討することとする。

この点、Aは、前記のように同人の新供述において、自分は、七月二一日の午前四時ころから、L子、M子、N子と一緒にE子方より警察に連れて行かれ、そのまま泊められた、警察に連れて行かれてからは、警察官の溜まり場(前記録音テープ中では「役職のある人の部屋と思われる部屋」と述べている。)の板の間にござ一枚を敷いて、正座させられ、足を動かしたり、体を支えたりすると、口が開けなくなるほど顔を殴られた、L子、M子、N子らも初めは一緒にいたが、二日位経ってから自分一人にされた、取調べでは、調室で主として笹田という名前の刑事から事情を聴かれた、警察官らが六、七人も一緒にいて、真ん中にいる笹田刑事から取調べを受けた上、傍らにいる者らから公会堂(剣道か柔道の道場として使われていた畳敷きの場所)に連れて行かれて竹刀で叩かれ、柔道で投げ飛ばされるなどされ、また調室に連れ戻されて笹田刑事から事情を聴かれるということの繰り返しであった。警察に拘束されて四、五日経ってから逮捕された、E子の客や男の人たちも七、八人調べられたらしいが、自分は、他に犯人がいないからと徹底的に調べられ、いくら弁解しても開き入れられず、こうした拷問を受けた結果、警察官らの言うがままに作り話をさせられてしまったのである、マキリを障子の間から土間に捨てたということも、警察に合わせて自分の考え出したことであり、動機についても、ぶっ通しで拷問され、I子に金をやるためにE子を殺したことにさせられた、なお、警察署長も調書をとったし、一週間や一〇日位して青森の柳町の未決に入ってから、予審判事が調書を作った、「マキリ」に関し、予審判事に図を書いて示したりしたが、予審判事には何回も聞かれ、その都度、三回か四回警察に戻されて調べ直され、その度に警察官らから殴られるので、「マキリ」は、女中がN子のところに行って帰るまでの三〇分間に自分が外に出て川のそばの水量検査小屋のところに捨てたことにされてしまった、という趣旨の供述をしている。Aの右供述の信用性に関し、前記一の(1)記載のように同人は公判段階でも警察で拷問等を受けた旨供述していることが窺え、公判審理に入って以後は一応一貫して述べていることといえるものの、公判廷において具体的にどのような内容の供述をしていたのか不明であり、したがって、一貫性も右供述の信用性を強く裏付けるものではなく、また、同人の新供述中の右供述部分以外の部分すなわち事件当時の具体的事実関係について述べる部分には右4で検討したような客観的な状況と矛盾する点も多く、その意味で右供述部分についてもこれを全面的に信用できるということは困難である。加えて、前記佐々木弁護士作成の弁論要旨には、事件発生後四日目である七月二五日に警部補雪田政一の聴取による被告人の自白調書ができ上がったと記録に書かれているという記載や、二日目である七月二三日の午前九時ころから午後六時ころまで、被告人が刃物を捨てたという岩木川に五〇余人が入って捜索したが、発見できなかったという報告があるなどという記載がある。そして、同弁論要旨の右記載を前提にすると、Aはかなり早い段階から自白していること、とりわけマキリを川に捨てたということについては、詳細な事実関係についてまで述べたかどうかは別として、少なくとも川の中の捜索の端緒となるような事実を事件発生の翌々日の朝方までに警察官らに述べていることが窺われ、同人がこのように早い段階から自白しているとすると、自白に至るまでの経過が、同人が右に供述するような「自分は、他に犯人がいないからと徹底的に調べられ、いくら弁解しても聞き入れられず、こうした拷問を受けた結果、警察官らの言うがままに作り話をさせられてしまったのである」というものであったとは考えられず、また、マキリを川に捨てた旨の自白に関し、同人が予審判事の取調べを受けた際の状況について右に述べているところも、自白をした時期との関係で食い違いがあり、この点同人の記憶としても混乱があるのではないかと疑われる。

Aの右供述を一定範囲で裏付けるものとしてM子の新供述がある。すなわち、M子は、前記のとおり同女の新供述中で、自分がN子方からL子とN子の三人で帰って来て間もなく、警察官が二人位来て、自分たちは、まだ家に入らないうちにいきなり、Aも一緒に四人とも五所川原警察署に連れて行かれた、警察には、連れて行かれてから一二日間泊めて置かれた、六畳か八畳の部屋に入れられて、自分とL子、N子、I子が部屋の各隅に一人ずつ離しておかれ、便所のときは警官が付添い、食事はその部屋でし、調べられるときは二階の部屋に一人ずつ連れて行かれた、調べられたのは、最初一日に二回から三回位で、何時に帰って、何時に寝て、事件のときは何時ころかなどという調べであったが、四、五日経ってから、警察官らから、L子はAが殺したと言っているのに、何であんたは知らないのかなどと言われたり、テーブルを叩いて「嘘をつくと、お前も同罪だぞ」等と言われて脅かされたりした、L子の供述と少しでも違うと嘘をついていると責められた、Aは、警察で廊下に一二日間おかれていたが、椅子に座っていたかずっと正座させられていたかどうかは分からない、正座させられていたときは、動くと警察に突つかれていたようである、Aは、恐らく二四時間ろくに眠っていなかったと思う、Aの両側には警察が付いていた、Aが二階で調べられるとき、何か唸るような声が聞こえていたし、警察が机を叩く音も聞こえていた、そして、帰されて来たときはAの顔が変になっていた、という趣旨の供述をしている。前記一の(3)でもみたように、M子の新供述は、四三年余り経過して述べたものではあるが、まずは事件発生当時の状況に関し、一三歳当時に述べた内容と新供述とは基本的な筋において一致していると認められ、そのことから、同女の記憶はさほど失われていないことが窺え、したがって、警察で同女やAらが取調べを受けた際の状況などに関し述べる部分についても、かなりの記憶が保たれているものとみられ、なお四三年余り後にことさら虚偽の供述をするような事情も存在しない。すなわち、M子の右供述については、その信用性を一応肯定できるものと考えられる。そして、Aの新供述にM子の右供述を合わせ考えると、Aは、本件事件の発生した昭和一一年七月二一日、警察官等がE子方に駆けつけて来て間もなく、警察官らによってL子、M子、N子らとともに管轄の警察署(五所川原警察署)に連行され、その後はそのまま同署内に泊めて置かれていたが、泊めて置かれた場所は、板の間(又は板敷きの廊下)で、ござを敷いた上に正座させられ、横に警察官らが付いて監視していたこと、M子、L子、N子及びI子も、Aと同じく同署内に泊めて置かれていたが、右四人が六畳ないし八畳位の部屋に入れられて、部屋の各隅に一人ずつ離して置かれ、便所に行くときは警官に付添われ、食事はその部屋の中でするという状況であったこと、同署の二階に取調べを行う部屋があり、Aの場合はもとより、M子らも一人ずつその調室に連れて行かれ、警察官らの取調べにおいてはかなり厳しい追求を受けたこと、Aの場合、調室内に、同人を訊問する取調担当官のほか数名の警察官らが立ち会っていたこと、また、警察官らから公会堂(前記録音テープ中で、Aは、剣道か柔道の道場として使われていた畳敷きの場所であると述べている。)へ連れて行かれ、投げつけられたり竹刀で叩かれたりされたこともあったことなどが窺われる。

ところで、前記のとおり本件確定訴訟記録及び証拠品が失われているので、Aの身柄拘束に関し何時どのような手続きが取られたのか、この点も不明である。ただ、Aに対し旧刑訴法に基づく勾引・勾留等の措置が取られたことは、Aの新供述からも窺われるが、右七月二一日に警察署へ連行された時点でそのような措置が取られたとはみられず、Aの新供述では一週間か一〇日位して青森市柳町の未決拘置監に移されたと述べているので、これを前提とすれば、そのころの時点で勾引・勾留等の手続きが取られたと考えられる。そうすると、Aが旧刑訴法に基づいて勾留などされる以前にどのような手続きに基づいて警察署に泊めて置かれたのか、現在においては不明というほかないが、本件の公判審理においてこの点が特に問題にされたとはみられず、また、M子らいわゆる参考人の立場にある者も同様に泊めて置かれていることに照らし、当時の手続きとして違法な拘束が行われたと認めるべき根拠はない。したがって、右のような身柄拘束状態に置かれたことから、Aのした自白が直ちに応急措置法一〇条二項にいう強制等による自白となるものではない。また、前記のように警察署に泊めて置かれている間に、警察官らからある程度の暴行を加えられたことも窺われる。しかし、Aが警察官らからこうした暴行を受けた結果、警察官らに本件犯行について自白したものかどうかについては、Aの新供述ではその趣旨のことを述べているものの、前記のように、同人がかなり早い段階から自白していると認められること、例えばマキリを川に捨てたということに関し、詳細な事実関係についてまで述べたかどうかは別として、少なくとも川の中の捜索の端緒となるような事実を事件発生の翌々日の朝方までに警察官らに述べていると窺われることなどに照らすと、右のような暴行が何時いかなる段階で加えられたのか不明であって、警察官らに対する自白との間に因果関係があると認めることも困難である。更に、大審院判決の証拠説明中に挙示されているAの自白は、予審判事の各強制処分訊問調書中のもの、すなわち予審判事の訊問に対する供述であるところ、予審判事が強制処分として同人を訊問したのは、同人の新供述によると同人が身柄を拘束された状態になってから一週間ないし一〇日位経過して、青森市柳町の未決拘置監に移された後のことであったと認められ、同人の新供述やM子の新供述によっても、Aが未決拘置監に移された以後にも警察官らから暴行を受けたことを窺わせる状況は存在しない。なお、Aの新供述中、マキリに関し予審判事から訊問を受けた際に警察に連れ戻されたなどと述べる部分については、客観的事情との食い違いがあるなど、これが信用できないことは前記のとおりである。そして、前記のようにAの警察官らに対する自白自体についても、これと警察署に泊めて置かれた間に受けた暴行との間に因果関係を認めることが困難であることと合わせ考えると、予審判事の各強制処分訊問調書中の自白については、Aの受けた右暴行とは直接の因果関係はないものと考えられる。

以上要するに、Aは、事件発生直後から身柄を拘束され、警察署に泊めて置かれていた間、警察官らからかなり厳しい取調べを受け、更には、公会堂というところへ連れて行かれて警察官らから暴行を加えられるということもあったと窺われるが、身柄の拘束が違法なものであったとは認められず、また、同人が自白を始めた時期に照らし、極めて長期間拘束されていた結果これに耐え兼ねて自白するに至ったものなどといい得ないことも明らかであり、のみならず、警察官らの取調べの状況も参考人であるM子らに対するものと対比して著しく苛酷なものであったとは窺われず、警察官らに対して行った自白も警察官らから受けた暴行との間に因果関係があると認めることは困難であり、更に警察署から青森市柳町の未決拘置監に移された後に行われた予審判事の訊問に対する自白については、警察官らから受けた暴行の直接的な影響があったと認めることはできないのである。したがって結局、予審判事の各強制処分訊問調書中のAの自白は、応急措置法一〇条二項にいう「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白」に当たるものと認めることはできないというほかない。

6  更に、予審判事の各強制処分訊問調書中のAの自白の内容について検討してみても、本件犯行の状況や動機等について述べる部分も、前記1ないし3記載のような本件現場の状況や事件発生前後の客観的状況と矛盾するものではなく、また、L子の予審供述とも概ね符合する。たしかに、Aが本件犯行に用いたという「マキリ」については、同人が捨てたと述べる岩木川の乾橋付近を捜索しても結局発見されず、大審院判決当時においてもその所在が不明であったという状況があり、また、前記佐々木弁護士の弁論要旨の記載によるとAがマキリを拾ったという場所についても、予審判事の行った検証の際Aの指示する場所と現場の状況との間に食い違いのあったことが窺われるが、右以外の点についてはこのような食い違いなどはなく、例えば右自白において、自分が八畳間を横切るE子の後ろに付いて行きながら、凶器として使ったマキリを急いで隠そうとして、店舗板敷の方に落とし置いたと述べているところ、前記1記載のとおり検証調書等によると、当該箇所にE子の血液型であるO型の人血の血痕が付着していたことが認められ、この点客観的状況と符合している。また、E子の四畳間における就寝状況についても、Aの自白とL子の予審供述とは符合し(ただし、L子が客に渡す釣り銭を貰いに四畳間に赴いた際に見たE子と子供の位置関係と、Aの述べる犯行時における右二人の位置関係とは逆になっているが、これはE子が寝方を変えるなどして位置が変わったことによるものと考えられる。)、枕としていた二つ折りの座蒲団の間に紐付の財布が入れてあったという自白の誤りでないことも、L子の予審供述などによって裏付けられている。動機についても、Aが当時I子から淋病の治療費等に当てる金員の供与方を求められていたことは、同女に対する予審訊問調書中で同女が述べているのみならず、証人Jに対する予審訊問調書及び証人Kに対する予審訊問調書中で、右両名ともI子の供述を裏付ける供述をしている。したがって、Aの自白は、所論主張のようにこれが内容虚偽であるとは到底認められず、むしろ十分に信用できるものと考えられる。

そして、前記1ないし4記載のような本件現場の状況や事件発生前後の客観的状況及びこれらの諸状況から推認できる事実と、予審判事の各強制処分訊問調書中のAの自白とを総合すれば、大審院判決が認定判示するとおり、AがI子に与えることのできる金員が欲しさに、E子が枕元に置いている財布の中から金員を窃取することを企て、もしE子に発見されたときは、その罪跡を湮滅するためすぐその場で同女を殺害することも決意した上、本件当日(昭和一一年七月二一日)午前二時過ぎころ、マキリと称する匕首様の刃物一挺を所持してE子の寝室を窺い、同女の熟睡している隙にその枕代用の二つ折りの座蒲団の間に挟んであったE子所有の財布を引き出そうとしたとき、E子に目を覚まされAの顔をみて誰何されたことから、右所携の凶器をもって同女の左腕、左胸部等を突き刺し、よって、間もなく右傷創に基づく出血の結果、同人を死亡するに至らしめたという事実を認定することができ、請求人提出の証拠資料、とりわけ前記のように新しく発見した証拠と認められる各証拠を加え、総合的に検討しても、大審院判決の判示する右犯罪事実の認定に合理的な疑いの生じる余地はないものと認められる。

第六結論

以上に検討したとおり、請求人B子が提出した各証拠資料を他の全証拠(本件においては取調べ済証拠)と総合的に評価判断しても、それらはいずれも、確定判決である大審院判決の右事実認定につき合理的な疑いを抱かせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠とは認められない。すなわち、右各証拠資料はいずれも、旧刑訴法四八五条六号にいう新しく発見した「無罪を言い渡すべき明確なる証拠」には該当しない。

よって、請求人B子の本件再審請求は、理由がないので旧刑訴法五〇五条一項により、請求人Cの本件再審請求は、前記第一の二記載のとおり請求権のない者の請求であって不適法であるから旧刑訴法五〇四条により、いずれもこれを棄却することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長判事 船田三雄 判事 阿蘇成人 松本時夫 秋山規雄 小田部米彦)

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